国の税制は、財源が不足する地方自治体に対して国税の中から地方交付税を交付し、税収が少ない自治体が運営できるようになっています。いわば、金持ちの自治体住民・企業から取った税金を貧乏な自治体に回しているということです。2020年度に国からお金をもらわなかった自治体(不交付団体)は都道府県では東京都のみ、市町村では75ありました。東京都民のなかには「自分たちのお金を地方に取られる」という人もいますが、そうではありません。地方で子どもを育て、都会の大学に通わせて一人前にした費用は地方に還元されていません。地方出身の東京都民は自分たちの税金の一部が故郷に還元されることを希望しているはずです。実際、第二次世界大戦直後までは都会で働く多くの地方出身者は故郷に仕送りをしていました。
さて、地方交付税がなくなれば地方はどうなるでしょうか。1888年(明治21年)から1940年(昭和15年)まで似たような状態にされたのが鹿児島県大島郡です。奄美大島など奄美群島が対象になりますが、1897年(明治30年)から1973年(昭和48年)までトカラ列島(旧十島村)も大島郡に所属したので(その後鹿児島郡)、10年目以降は奄美群島とトカラ列島が対象でした。この財政制度を「大島郡独立経済(分断財政)」といいます。これにより、鹿児島県と大島郡の財政が分離され、大島郡は自給自足的な小規模な財政運営を強いられました。この分断経済は鹿児島県がやったことですが、明治政府は1901年(明治34年)に砂糖消費税法を制定し、沖縄・奄美の砂糖に課税しました。日清戦争(1894~95)後の財政需要の増加を満たすのが目的です。これらの差別的・棄民的政策がとられたため、奄美群島・トカラ列島の産業基盤は整備されず、人々の生活は“蘇鉄地獄”と呼ばれるほど疲弊する状態に陥りました。やっと大島郡産業助成計画・大島郡振興計画による振興事業が始まったのは1927年(昭和2年)のことで、天皇の大島行幸で注目が集まってからです。“島差別”を“天皇の恵み”にすり替えるとはなんとひどいことでしょう。太平洋戦争もそうですが、日本という国は過去の過ちを一度も総括していないのではないでしょうか。
大島郡独立経済を実施するときの鹿児島県議会での討論では、「大島郡の島々は絶海に点在して内地から二百里離れて交通が不便で、さらに風土・人情・生業等が内地と異なるから経済を分別する」とされました。ある研究者は「それなら“大島県”にして明治政府の補助を受ければよかった」といいます。そして、本当の理由は「内地の産業基盤整備事業に莫大な資金が必要になり、大島の産業基盤整備にまで手が回らなくなった」と指摘しています。薩摩藩による“黒糖地獄”時代の奄美搾取に続き、またもや“中央のための犠牲”を押しつけられたのです。
本日・6/17のLAPIZ ONLINE
Lapiz2021夏号Vol.38
連載コラム・日本の島できごと事典 その28《要塞地帯法》渡辺幸重
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宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身
歌劇の町の酒造りの村 ~種痘免許を持つ医師がいた~
手塚治虫が『陽だまりの樹』をかきだして40年になると何かの記事でみて、この連載漫画をよんでみた。幕末の動乱に巻きこまれながら、種痘の普及につとめた医師、手塚良庵の物語だ。良庵は緒方洪庵の適塾に学んだという。適塾のホームページを開いてみて、適塾が運営する除痘館が摂津・小浜村の山中良和に種痘医免許証を出していることを知った。小浜は現在の宝塚市のほぼ中央に位置し、治虫が5歳のころから住んだ村だ。調べてみると小浜には有馬街道の宿場があり、山中家は宿場内で造り酒屋を営んでいたことがわかった。宿場跡は宝塚大劇場から東に1キロしか離れておらず、治虫も宿場跡を訪ねたにちがいない。歩きながら良仙と山中良和が治虫の頭の中で重なり合ったかもしれない。そんな思いにかられ、小浜宿跡をたずねた。MORE
本日・6/10のLAPIZ ONLINE
Lapiz2021夏号Vol.38
原発を考える《原発を止めた裁判官》文 井上脩身
「住宅より耐震性低い」と指弾
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連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重
1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。
明治期になって薩摩藩統治時代が終わっても鹿児島県は砂糖の独占販売を継続しました。1872(明治5)年に設立された大島商社が黒糖販売を支配し、1879(明治12)年の大島商社解散まで続いたのです。その間、奄美の人々は黒糖の自由販売を求める運動を続けましたが、鹿児島に向かった陳情団が牢に入れられたり、西南戦争への出兵を命じられて35人のうち20人が戦死または行方不明になるという理不尽なこともありました。
奄美の黒糖は薩摩藩の有力な財源となり、財政難から逃れて明治維新の基礎を作りました。私は、薩摩藩の奄美搾取がなかったら明治維新はなかったと考えます。九州の南から台湾にかけて連なる琉球弧(南西諸島)の島々の歴史は日本の歴史そのものです。特に、九州と沖縄の間に埋もれがちなトカラ列島・奄美群島の歴史は日本社会の“質”を考えるとき大きな示唆を与えるということを忘れないでください。
apiz2021夏号Vol.38 本日・6/7のLAPIZ ONLINE
本日・6/7のLAPIZ ONLINE
編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 上》Lapiz編集長 井上脩身
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本日・6/6のLAPIZ ONLINE
Lapiz2021夏号Vol.38
神宿る。《大原神社のケヤキ》片山通夫
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Lapiz 2021夏号 びえんと《コロナ禍の医療崩壊》Lapiz編集長 井上脩身
憲法記念日の5月3日、新聞に意見広告が掲載された。市民の意見30の会・東京による全面広告で「武力で暮らしは守れない!」の大見出しがつけられている。意見は4項目あり、そのうちの「生存権を脅かすな」のなかの「感染症病床が1998年9060床から2020年1869床へと激減」との記述に目が留まった。この意見広告が出たとき、我が国は新型コロナウイルス第4波の渦中にあり、東京都、大阪府、京都府、兵庫県で緊急事態宣言が発令中であった。なかでも大阪府では重症患者が重症病棟のある病院に収容されないという医療崩壊が始まっていた。MORE
連載コラム・日本の島できごと事典 その26《猫神様》渡辺幸重
私が子どもの頃見た時代劇映画にはよく“猫の妖怪”が登場し、猫が美女に化けて屋敷に入り込み、夜な夜な行灯の油をなめるシーンがありました。猫には魔力があると教えられ、行灯に映る猫の影に怯えたものです。現代ではペットとして人間を癒やすために貢献しているようで、私の中でもすっかりイメージが変わりました。
“家猫(飼い猫)”“野良猫”“地域猫”という区別をご存知でしょうか。ある地域の住人が餌をやり、共同で面倒をみる猫を地域猫といいます。東京の谷中は有名ですが、日本には地域猫が多く住む“猫の島”がたくさんあります。ちょっと挙げるだけで、牡鹿諸島の田代島(たしろじま)、湘南の江の島、琵琶湖の沖島、瀬戸内海の真鍋島・青島・佐柳島(さなぎしま)・祝島、玄海諸島の加唐島、天草諸島の湯島、と次々に出てきます。猫好きな方は近くの島を調べてみてください。
その代表が宮城県石巻市の田代島です。なんといってもここには猫神社があり、祭神として猫神様(美與利大明神)が祀られています。猫の天敵である犬は飼ってはいけないといわれるほど徹底しているのです。
田代島ではかつて養蚕が行われ、カイコの天敵であるネズミを駆除してくれる猫が大事に飼われていたようです。そのうち、大型定置網(大謀網)によるマグロ漁が盛んになり、島内の番屋に寝泊まりする漁師と餌を求めて集まる猫が仲良くなりました。漁師は猫の動作から天候や漁模様を予測したそうです。“持ちつ持たれつ”のいい関係ですね。ある日、網を設置するための重しの岩が崩れて猫が死ぬ事故がありました。網元がねんごろに猫を葬ったところ、大漁が続き、海難事故もなくなりました。そこでその猫を猫神様として祀ったそうです。田代島には別の伝説もあって、いたずら好きの山猫が魚を盗んだり人間に危害を加えたり化かしたので、それを鎮めるために猫を祀ったともいいます。こちらの方は“猫の妖怪”のイメージに近く、祟りを恐れて祀る形になります。
東日本大震災のあと「田代島にゃんこ・ザ・プロジェクト」の取り組みが起き、全国の多くの愛猫家からカキ養殖再生のための募金が寄せられ、オリジナル猫グッズなどが謝礼として贈られました。また、ドイツの獣医師・クレス聖美さんは被災後の猫を心配して2ヶ月おきに来島し、ボランティア診療を続けました。震災後の動きは猫神様が島の守り神であることを証明しました。島の平和はこれからも長く続きそうです。
連載コラム・日本の島できごと事典 その25《日本人初の世界一周》渡辺幸重
日本人で初めて世界一周をしたのは絶景の松島湾に浮かぶ宮戸島の儀兵衛、多十郎(太十郎)、寒風沢島(さぶさわじま)の津太夫と佐平の4人で、200年以上前の江戸時代のことです。彼らは、北はベーリング海、南は南極近くまで旅をし、ユーラシア大陸を横断し、大西洋と太平洋を渡りました。11年かかりました。この歴史を知っている人は少ないと思うので、紹介します。
4人は仙台藩の船・若宮丸の乗組員で、儀兵衛は賄い、他の3人は水主(かこ)でした。彼らを含む16人が乗り込んだ若宮丸は1793年(寛政5年)11月、米と材木を積んで石巻から江戸に向かう途中、暴風雨に遭い、北太平洋のアリューシャン列島の小島に漂着しました。一行はシベリアのイルクーツクに移され、そこで7年間暮らしたあと漂流10年後にロシアの首都サンクトペテルブルクで死亡や病気以外の10人が皇帝に謁見し、帰国を希望した4人がロシア初の世界周航船・ナジェージュダ号でクロンシュタット港から日本に向かいました。それから1年2カ月かけて地球を回り、1804年(文化元年)9月に長崎港伊王崎に到着しました。1804年というのはナポレオンが国民投票で皇帝になり、ナポレオン1世が誕生した年です。4人が乗った船はコペンハーゲン、イギリス、スペイン領アフリカ、ブラジル、南太平洋・マルケサス諸島、カムチャッカ半島に寄港しています。鎖国中の日本に帰国した4人は3カ月以上幽閉されたあと仙台藩に渡され、故郷に帰ることができました。途中、江戸で受けた藩の取り調べをまとめたのが蘭学者・大槻玄沢の『環海異聞』です。これにより私たちは、北海で英仏戦争中の英国船から砲撃を受け、南アメリカ最南端のホーン岬で強風に遇って南極近くまで流され、マルケサスで全身に入れ墨をした現地人と遭遇した、などの4人の体験を知ることができます。いまでも宮戸島には多十郎の墓碑、儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑、儀兵衛の供養碑があり、島の東松島縄文村歴史資料館では多十郎がロシア皇帝から下賜されたという上着などを見ることができます。
ロシアが4人を送り届けた目的は日本との交易にありました。ところが、幕府の対応が礼を欠くものであったため日露が緊張関係になり、お互いの拿捕合戦につながったそうです。ロシアに残った乗組員の一人、善六はキセリョフ善六の名前で通訳や日本語教師を務め、露日辞書を作りました。1813年(文化10年)に函館で行われたゴローニン事件解決のための日露交渉の場にロシア側通訳として出席しています。江戸時代にはロシアに留まった日本人漂流民が何人もいたそうです。鎖国しても海は世界を結ぶということを知りました。