
もうかなり昔の話。(あんなんばっかり!)ミノルタTC-1と言うカメラがあった。勿論フィルムカメラである。調べてみたら今から30年も前の1996年01月01日が新発売だった。「緑のロッコール」で有名なミノルタのカメラだ。チタンボデイの実にコンパクトなカメラ。今時のコンパクトデジタルカメラよりもはるかに精巧な造りだと思う。 “エッセー[ミノルタTC-1]片山通夫” の続きを読む
片山通夫公式サイト photo:祇王寺にて・嵯峨野
もうかなり昔の話。(あんなんばっかり!)ミノルタTC-1と言うカメラがあった。勿論フィルムカメラである。調べてみたら今から30年も前の1996年01月01日が新発売だった。「緑のロッコール」で有名なミノルタのカメラだ。チタンボデイの実にコンパクトなカメラ。今時のコンパクトデジタルカメラよりもはるかに精巧な造りだと思う。 “エッセー[ミノルタTC-1]片山通夫” の続きを読む
2025年9月5日、先ほどだが台風15号が紀伊水道をかすめて東に向かったようだ。紀伊水道には友が島と言う80年以上も前に軍事要塞が築かれた島がある。 “散歩道《友が島》片山通夫” の続きを読む
ボクの家の最寄りの駅(JR)から、ちょっとした旅のつもりで各駅停車の電車に時には乗る。その電車はおよそ2時間かけて明石と言う東海道線の駅に着く。駅は高架駅なので、冬などは吹き晒しだ。今は真夏なのでうだるような暑さ。駅のホームからは明石城址が見える。この城は明石藩の政庁と藩主の居所が置かれていた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。この城には天守がない。大分県中津城の天守を移築する予定だったらしいが、から天守を移築する計画があったらしいが、築城に神経をとがらせる幕府に配慮し、また大砲の技術が進み標的になる建物を建てる必要がなかったとの理由で天守は造られなかったと伝えられるが定かではない。 “散歩道《子午線のまち》片山通夫” の続きを読む
追記
阪神タイガースはセ・リーグ優勝したけれど、その夜に石破首相は退陣すると発表した。残念な事態である。
我が国の今後は次の首相に託さなくてはならないが、心配なことである。
まず3選挙に敗北をした。敗因はすべて石破首相にあった。そして石破おろしがあって今回の事態に陥った。ところがこれらの選挙の敗因の分析は行われたということはなかった。ただの石破おろしだったのだ。多くの国民はおそらく知っている。敗因は経済政策や対中政策もあったかもしれないが、選挙の敗因だけを言い募り、遂には首相を追い詰めた勢力があると知っている。いや、知ってしまった。(この稿25/9/08記) “現代時評plus《石破首相側のブラフ?》追記 片山通夫” の続きを読む
ややっこしい、いや正当な「ブラフ」か、突然、石破おろしの自民党内に、解散風が吹き出した。「総裁選の前倒しが決まったら『選択肢は3つある』と石破首相は周囲に語っているとか。ひとつは、ギブアップして退陣する。ふたつ目は、自分も総裁選に出馬する。みっつ目には、解散総選挙に踏み切ると言う選択。石破氏の選択技は多い。ところが反石破派にはあまり選択はなさそうにも見える。現執行部に反旗を掲げているのに解散になった時「党の公認が得られるか」、「選挙費用は?」と悩ましいことになりそうだ。 “現代時評plus《石破首相側のブラフ?》片山通夫” の続きを読む
1923年9月1日。100年余り前のこの日は言わずと知れた関東大震災が起こった日である。この地震で直接的に亡くなられた方はおよそ10万5000人にのぼった。
また全壊家屋10万棟以上で建物の倒壊に加え、地震発生が昼食時だったことから大規模な火災も発生し被害を拡大させた。この被害にも驚かされるが、地震直後から流言飛語が飛び交い、横浜市では「朝鮮人暴動の流言が流布」し始め、翌2日正午には横浜全市にこの流言が伝わった。 “現代時評《関東大震災と流言飛語を思う》片山通夫” の続きを読む
織田信長や豊臣秀吉代それに徳川家康などが活躍していた時代、フランシスコ・ザビエル(写真左)というカトリックの司祭がインドのゴアから日本に来てキリスト教(カトリック)の布教を目的として来たのは1549年だった。聖パウロ(初期キリスト教の使徒で、新約聖書の著者の一人)を超えるほどの多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。ところが徳川家康の時代になって、キリスト教は禁止されたことは有名である。 “散歩道《セミナリオと禁止令》片山通夫” の続きを読む
最近、新聞紙上などで「反ユダヤ主義」と言う言葉がよく聞かれる。イスラエルがハマスとの戦闘でガザ地区を攻撃している状況の中で、イスラエル側についたアメリカのトランプ大統領などからも、彼にとっては金科玉条のようこの言葉をよく聞くことがあるが、ユダヤ教やその歴史、またナチスのホロコーストなど、あまり日本人になじみのない歴史や言葉が頻繁に出てくる。もう一度筆者もおさらいするつもりで考えてみることにした。 “現代時評《反ユダヤ主義》片山通夫” の続きを読む
筆者はこのところ毎日と言っていいほど「ジェノサイド」について考える。きっかけは特にない。ただ8月15日が近づくと「終戦(敗戦)がテーマ」の記事や番組がよく見られるのが、きっかけと言えばきっかけである。ボクの心の底流には人が理不尽に殺されるということに関しての嫌悪感が大きく流れている。それも殺される側の人たちの責任ではないと言える場合に。 “現代時評《ジェノサイドについて考える》片山通夫” の続きを読む
話は前後する。風土記などを読んでいると、国分寺という名称がよく出てくる。辞書的に説明すると、国分寺とは741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院を指す。国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
仏教によって国の安全を護るための寺院を国分寺というが、世の常、時代の新旧を問わず、当初は国司の怠慢から国分寺の建立は進まなかったようだ。ゆえに747年(天平19年1月)に「国分寺造営督促の詔」を出し、造営体制を国司から郡司層に移行させ、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
ボクがこの国分寺に興味を持つのは、ボクにとっては「幻の京」であった恭仁京(くにきょう)の場所を偶然知ったからである。恭仁京は木津川に近い京都府木津川市加茂町にある。
大手新聞社を巻き込んで石破おろしを偽作する自民党旧安倍派や麻生派。何しろ、対米(トランプ)関税交渉も何とか治まったかに見える11日だが、15日の終戦記念日までに、石破おろしを完結したいところだが、 “現代時評plus《せめて滅びに美学を!》片山通夫” の続きを読む
あれから80年。この夏は節目の年だとあちこちで戦争にちなむ催しがあるようだ。
さて今日は8月9日。ナガサキに米陸軍の爆撃機が原子爆弾と言うとんでもない、まだ人類が経験したことのない爆弾を投下した。時間は11時2分。これに先立つ6日にはヒロシマに。ナガサキに落とされた原発の名前はファットマン。ヒロシマにはリトルボーイと言う名前がつけられていた。ナガサキのそれは「太っちょ」、ヒロシマの原爆にはリトルボーイ、つまり「チビ」。
今日、ナガサキの慰霊祭を見ていたら涙が出てきた。7万人の市民を一瞬に焼き殺した爆弾の名前が「太っちょ」だと。
ふざけている。2025年夏の涙。
「あおによし」は、青丹(あおに)という顔料の色が美しい奈良の都の様子を、「咲く花の薫るがごとく今盛りなり(咲き誇る花が香るように、今が最も美しい盛りである)」と表現した歌に由来しているらしい。710年から794年のおよそ90年間の奈良時代は律令制度が確立され、天平文化に代表される仏教文化が花咲き、国際色豊かな、唐の影響を大きく受けた時代だった。 “散歩道《あおによし》片山通夫” の続きを読む
前に書いたと思うが、奈良町と言う古(いにしえ)の奈良を彷彿をさせる一角がある。飛鳥から移ってきた元興寺の寺内町だったとおもわれるが、もしかして境内だったのかもしれない。当時の寺院は絶大な力を持っていた。この寺院の屋根瓦の一部だろうが飛鳥時代のものだと言われている。寺院を飛鳥から今でいう奈良町まで運んで来た経済力には驚かされる。 “散歩道《奈良町辺りから二月堂へ》片山通夫” の続きを読む