「島の高級ホテル」というと、最近次々にオープンしている沖縄の外資系ホテルを思い浮かべるでしょうが、今回は静岡県の島で開業した戦前と戦後の二つのホテル「浜名湖ホテル」と「淡島ホテル」を紹介します。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その36《島の高級ホテル》渡辺幸重” の続きを読む
連載コラム・日本の島できごと事典 その35《野島断層》渡辺幸重
1995年(平成7年)1月17日・火曜日・05時46分、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生しました。この直下型地震はマンションやビルを倒し、高速道路や鉄道、ライフラインを分断し、火災を起こし、神戸市を中心に死者6,434人・行方不明者3人・負傷者43,792人・住家被害約64万棟という甚大な被害をもたらしました(消防庁調べ、2006年5月19日確定値)。これが「神戸・淡路大震災」です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その35《野島断層》渡辺幸重” の続きを読む
連載コラム・日本の島できごと事典 その33《霊場・松島》渡辺幸重
日本三景といえば、松島・天橋立・宮島です。奥州の松島は、松島湾内外に300近い島々を浮かべ、白から灰白色の岩肌と松の緑の景観から国内屈指の観光地になっています。江戸時代から景勝地として知られる松島ですが、その前は“奥州の高野(こうや)”と呼ばれ、死者供養の霊場だったことをご存知でしょうか。
松島湾北西部にある雄島(おしま)は「松島」の名称発祥の地で、後鳥羽上皇から送られた千本の松をこの島に植えたことから「千松島(ちまつしま)」と呼ばれ、さらに広がって一帯が「松島」と呼ばれるようになりました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その33《霊場・松島》渡辺幸重” の続きを読む
連載コラム・日本の島できごと事典 その32《日本初ネイティブ英語教師》渡辺幸重
鎖国時代の1848年(嘉永元年)、一人のアメリカ青年が北海道北西側の日本海に浮かぶ焼尻島の白浜に上陸しました。もちろん密航です。青年の名はラナルド・マクドナルド。ニューヨークから捕鯨船に乗り込み、樺太沖から単独ボートに乗り換えて焼尻島に上陸したのです。彼の母親はネイティブアメリカンで、肌が有色のため差別を受けていたマクドナルドは、母方の親戚から自分たちのルーツは日本人だという話を聞いて日本にあこがれ、日本行きを決意したということです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その32《日本初ネイティブ英語教師》渡辺幸重” の続きを読む
連載コラム・日本の島できごと事典 その31《自然と共生する野生馬》渡辺幸重
北海道東部・根室半島の付け根付近の南岸沖にユルリ島という無人島があります。絶滅危慎種の貴重な海鳥が多く繁殖し、希少な高山植物も多い自然豊かな島です。その島に人間が放した馬が野生化して棲んでいます。一般に人間が島に持ち込んだ外来動物は島本来の自然を破壊するものとして駆除の対象になりますが、ユルリ島の馬はいったん絶滅策がとられたものの最近、人の手によって増やそうという活動がみられます。「自然と共生する野生馬」だというのですが、それはなぜでしょうか。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その31《自然と共生する野生馬》渡辺幸重” の続きを読む
連載コラム・日本の島できごと事典 その30《在沖奄美人》渡辺幸重
第二次世界大戦後、北緯30度線がかかるトカラ列島・口之島から南が日本から分離され、サンフランシスコ講和条約で日本が独立してからも米軍政下に置かれました。奄美群島もそのひとつです。奄美大島日本復帰協議会などが激しい祖国復帰運動を展開し、奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本復帰を果たしました。そのとき、沖縄には6万人を超える奄美群島出身者が生活していました。沖縄の日本復帰は1972年(昭和47年)5月15日のことです。この間、米軍政下の沖縄に住む奄美群島出身者いわゆる“在沖奄美人”たちは“本土日本人”でもない“外国人”扱いを受け、いわれのない差別を受けました。
かつて琉球国の一部だった奄美群島は薩摩の琉球侵攻後には直轄支配され、明治以降は鹿児島県に属しましたが、米軍政下では日本本土と遮断され、沖縄島に移住した人も多かったようです。沖縄で活躍する奄美群島出身者も多くありました。琉球政府行政副主席兼立法院議長の泉有平、琉球銀行総裁の池畑嶺里、琉球開発金融公社総裁の宝村信雄、琉球電信電話公社総裁の屋田甚助などです。ところが、奄美群島の日本復帰後、これらの人たちは公職追放の措置を受けました。そればかりでなく、公務員として働く多くの出身者も職を奪われたのです。在沖奄美人の参政権・土地所有権も剥奪され、本土日本人に与えられた政府税の外国人優遇制度も認められませんでした。社会的な差別意識も広がりました。佐野眞一『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史<上>』には次のような内容の沖縄奄美連合会会員の言葉があるそうです。
「奄美人は沖縄に土地を買えませんでした。まともな職にも就けなかったから安定した生活をするのは無理でした。銀行も金を貸してくれません」「僕も奄美出身ということがすぐわかる苗字で、随分いじめられました。復帰前も復帰後も"奄美と宮古(宮古島出身者)はお断り"と言われて、奄美出身者はアパートにも入れなかったのです。」
ちまたでは「奄美出身者は奄美に帰れ」との声が広まり、沖縄市町村長会もこれを要望したとのことです。いま日本本土による沖縄差別の問題に心を痛める私としては信じられないほどの状況です。
ときの権力者は一般社会の貧困や歴史による重層的な差別意識をあおって差別政策を推し進めます。突き詰めて考えると江戸幕府の身分制度によって部落差別が生まれたように権力構造や現代の社会構造の中に差別が埋め込まれているように思えます。自分たちの心の中の差別意識を見つめるとともに権力や社会をどう変えていくか、考えていきたいと思います。
連載コラム・日本の島できごと事典 その29《大島郡独立経済(分断財政)》渡辺幸重
国の税制は、財源が不足する地方自治体に対して国税の中から地方交付税を交付し、税収が少ない自治体が運営できるようになっています。いわば、金持ちの自治体住民・企業から取った税金を貧乏な自治体に回しているということです。2020年度に国からお金をもらわなかった自治体(不交付団体)は都道府県では東京都のみ、市町村では75ありました。東京都民のなかには「自分たちのお金を地方に取られる」という人もいますが、そうではありません。地方で子どもを育て、都会の大学に通わせて一人前にした費用は地方に還元されていません。地方出身の東京都民は自分たちの税金の一部が故郷に還元されることを希望しているはずです。実際、第二次世界大戦直後までは都会で働く多くの地方出身者は故郷に仕送りをしていました。
さて、地方交付税がなくなれば地方はどうなるでしょうか。1888年(明治21年)から1940年(昭和15年)まで似たような状態にされたのが鹿児島県大島郡です。奄美大島など奄美群島が対象になりますが、1897年(明治30年)から1973年(昭和48年)までトカラ列島(旧十島村)も大島郡に所属したので(その後鹿児島郡)、10年目以降は奄美群島とトカラ列島が対象でした。この財政制度を「大島郡独立経済(分断財政)」といいます。これにより、鹿児島県と大島郡の財政が分離され、大島郡は自給自足的な小規模な財政運営を強いられました。この分断経済は鹿児島県がやったことですが、明治政府は1901年(明治34年)に砂糖消費税法を制定し、沖縄・奄美の砂糖に課税しました。日清戦争(1894~95)後の財政需要の増加を満たすのが目的です。これらの差別的・棄民的政策がとられたため、奄美群島・トカラ列島の産業基盤は整備されず、人々の生活は“蘇鉄地獄”と呼ばれるほど疲弊する状態に陥りました。やっと大島郡産業助成計画・大島郡振興計画による振興事業が始まったのは1927年(昭和2年)のことで、天皇の大島行幸で注目が集まってからです。“島差別”を“天皇の恵み”にすり替えるとはなんとひどいことでしょう。太平洋戦争もそうですが、日本という国は過去の過ちを一度も総括していないのではないでしょうか。
大島郡独立経済を実施するときの鹿児島県議会での討論では、「大島郡の島々は絶海に点在して内地から二百里離れて交通が不便で、さらに風土・人情・生業等が内地と異なるから経済を分別する」とされました。ある研究者は「それなら“大島県”にして明治政府の補助を受ければよかった」といいます。そして、本当の理由は「内地の産業基盤整備事業に莫大な資金が必要になり、大島の産業基盤整備にまで手が回らなくなった」と指摘しています。薩摩藩による“黒糖地獄”時代の奄美搾取に続き、またもや“中央のための犠牲”を押しつけられたのです。
本日・6/17のLAPIZ ONLINE
Lapiz2021夏号Vol.38
連載コラム・日本の島できごと事典 その28《要塞地帯法》渡辺幸重
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連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重
1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。
明治期になって薩摩藩統治時代が終わっても鹿児島県は砂糖の独占販売を継続しました。1872(明治5)年に設立された大島商社が黒糖販売を支配し、1879(明治12)年の大島商社解散まで続いたのです。その間、奄美の人々は黒糖の自由販売を求める運動を続けましたが、鹿児島に向かった陳情団が牢に入れられたり、西南戦争への出兵を命じられて35人のうち20人が戦死または行方不明になるという理不尽なこともありました。
奄美の黒糖は薩摩藩の有力な財源となり、財政難から逃れて明治維新の基礎を作りました。私は、薩摩藩の奄美搾取がなかったら明治維新はなかったと考えます。九州の南から台湾にかけて連なる琉球弧(南西諸島)の島々の歴史は日本の歴史そのものです。特に、九州と沖縄の間に埋もれがちなトカラ列島・奄美群島の歴史は日本社会の“質”を考えるとき大きな示唆を与えるということを忘れないでください。
連載コラム・日本の島できごと事典 その26《猫神様》渡辺幸重
私が子どもの頃見た時代劇映画にはよく“猫の妖怪”が登場し、猫が美女に化けて屋敷に入り込み、夜な夜な行灯の油をなめるシーンがありました。猫には魔力があると教えられ、行灯に映る猫の影に怯えたものです。現代ではペットとして人間を癒やすために貢献しているようで、私の中でもすっかりイメージが変わりました。
“家猫(飼い猫)”“野良猫”“地域猫”という区別をご存知でしょうか。ある地域の住人が餌をやり、共同で面倒をみる猫を地域猫といいます。東京の谷中は有名ですが、日本には地域猫が多く住む“猫の島”がたくさんあります。ちょっと挙げるだけで、牡鹿諸島の田代島(たしろじま)、湘南の江の島、琵琶湖の沖島、瀬戸内海の真鍋島・青島・佐柳島(さなぎしま)・祝島、玄海諸島の加唐島、天草諸島の湯島、と次々に出てきます。猫好きな方は近くの島を調べてみてください。
その代表が宮城県石巻市の田代島です。なんといってもここには猫神社があり、祭神として猫神様(美與利大明神)が祀られています。猫の天敵である犬は飼ってはいけないといわれるほど徹底しているのです。
田代島ではかつて養蚕が行われ、カイコの天敵であるネズミを駆除してくれる猫が大事に飼われていたようです。そのうち、大型定置網(大謀網)によるマグロ漁が盛んになり、島内の番屋に寝泊まりする漁師と餌を求めて集まる猫が仲良くなりました。漁師は猫の動作から天候や漁模様を予測したそうです。“持ちつ持たれつ”のいい関係ですね。ある日、網を設置するための重しの岩が崩れて猫が死ぬ事故がありました。網元がねんごろに猫を葬ったところ、大漁が続き、海難事故もなくなりました。そこでその猫を猫神様として祀ったそうです。田代島には別の伝説もあって、いたずら好きの山猫が魚を盗んだり人間に危害を加えたり化かしたので、それを鎮めるために猫を祀ったともいいます。こちらの方は“猫の妖怪”のイメージに近く、祟りを恐れて祀る形になります。
東日本大震災のあと「田代島にゃんこ・ザ・プロジェクト」の取り組みが起き、全国の多くの愛猫家からカキ養殖再生のための募金が寄せられ、オリジナル猫グッズなどが謝礼として贈られました。また、ドイツの獣医師・クレス聖美さんは被災後の猫を心配して2ヶ月おきに来島し、ボランティア診療を続けました。震災後の動きは猫神様が島の守り神であることを証明しました。島の平和はこれからも長く続きそうです。