連載コラム・日本の島できごと事典 その155《南洋踊り》渡辺幸重

南洋踊り(東京都公式サイトより)

 沖縄やハワイなど南の島の音楽は心が晴れ渡るような明るい歌や踊りが特徴的です。明るい太陽、広がる青空と海、さわやかな風、緑の木々に鮮やか色の花々-歌や踊りの中にも豊かな自然と穏やかな生活を感じます。
沖縄と同じ緯度帯にある小笠原諸島(東京都)も同じです。小笠原古謡に「南洋踊り」「丸木舟」「レモン林」などがありますが、特に南洋踊りは返還祭などの島の祭りやサマーフェスティバル、連合運動会、敬老大会、観光客の歓迎イベント、日本一早い海開き(1月1日)などで披露され、腰みのや首飾り、髪飾りを身につけたいかにも南島らしい素朴な踊りで親しまれています。2000(平成12)年には小笠原における南方文化伝播の実態を知ることができる貴重な踊りとして「小笠原の南洋踊り」が東京都の無形民俗文化財に指定されました。
 南洋踊りは、日本が第二次世界大戦前の1914(大正3)年から1945(昭和20)年の敗戦まで委任統治領だったサイパン・トラック・パラオなどの南洋群島(旧ドイツ領ミクロネシア)へ仕事に行っていた父島聖ジョージ教会初代牧師の長男、ジョサイア・ゴンザレスが現地の島々の歌と踊りを覚え帰ってきてから小笠原諸島に広めたといわれています。時期は大正末期から昭和の初め頃で、南洋踊りを構成する5つの歌の一つ「夜明け前」の原曲はサイパンにあることなどから「南洋踊りはサイパンから小笠原に伝わった」と説明する資料もあります。1968(同43)年の日本復帰頃までは一般に「土人踊り」と呼ばれました。
 第二次世界大戦中、小笠原諸島の住民が強制疎開によって本土に移動させられたことから南洋踊りは一時途絶えたかにみえましたが島を離れた住民の間で伝えられており、日本復帰後に小笠原で復興されました。1981(同56)年には「南洋踊り保存会」が設立されています。
南洋踊りは「レフト、ライト」という言葉に合わせる行進のポーズで始まり、5つの曲を同じポーズでつないでいきます。曲は「ウラメ」「夜明け前」「ウワドロ」「ギダイ」「締め踊りの唄(アフタイラン)」で、歌詞は「夜明け前」と「締め踊りの唄(アフタイラン)」の前半は日本語ですが、他は南洋群島の言葉だということです。たとえば「ウワドロ」は「ウワドロフィ イヒヒ イヒヒ」で始まりますが意味はわかりません。タマナ(テリハボク)をくりぬいて作った打楽器「KAKA(カカ)」をギンネムの木で叩いてリズムを刻み、それに合わせてこの歌を歌い、踊ります。

 ミクロネシアの「行進踊り」、ヤップ島の「マース」「テンプラオドリ」との関係が深いといわれる南洋踊りですが、YouTubeで動画を鑑賞して南島の空気を感じてください。

南洋踊りの動画の例
https://www.youtube.com/watch?v=z6lHS4lKXYM(「BoninGIAN」チャンネル)
https://www.youtube.com/watch?v=Qk45D1YMoH4(「kathyの音あそび」チャンネル

連載コラム・日本の島できごと事典 その154《アビ漁》渡辺幸重

アビ漁の様子(「文化遺産オンライン」サイトより)

【 LapizOnline】アビはカラスやカモメより少し大きい海鳥で、冬になるとアラスカやシベリアから日本の北海道以南に飛来し、翌年の3~4月に帰っていく渡り鳥です。アビ科には種か亜種かはっきりしませんがアビ、オオハム、シロエリオオハム、ハシジロアビ、ハシグロアビの5種類があり、広島県には瀬戸内海に浮かぶ斎島(いつきじま:呉市豊浜町)周辺から県民の浜(同市蒲刈町)沖などにアビ、オオハム、シロエリオオハムが毎年12月ごろ渡来します。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その154《アビ漁》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その153《一向宗弾圧》渡辺幸重

甑島念仏発祥の碑(じゃらんネットより)

日本の宗教弾圧としてはキリシタンに対する弾圧事件がよく知られていますが、仏教界でも繰り返し起きており、その弾圧事件はよく“法難”と呼ばれます。特に一向宗(浄土真宗)信徒が武士・領主の苛烈な領民支配をするに対して戦った「一向一揆」は有名で、加賀(石川県)においては1488(長享2)年に約20万人の一向宗信徒が立ち上がり、守護大名を倒してその後100年にわたって農民・信徒が「百姓ノ持チタル国」として支配しました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その153《一向宗弾圧》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その152《領海三キロメートル宣言》渡辺幸重

荒れた日の三宝港(secretbase-racingサイトより)

【LapizOnline】島の周辺には好漁場が多くあり、漁船が集まります。しかし、大型船が多い他所から漁に来る漁船に比べて地元の島の漁船は小型船が多いので漁獲高が極端に小さいという状況がしばしば起こります。私が生まれ育った島でも山腹に立つと大海原で操業する島外の大型漁船が見え、資源を奪われるような悔しい思いをしたことがあります。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その152《領海三キロメートル宣言》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その151《大東隆起環礁》渡辺幸重

ダーウインの沈降説(「二階の窓から」サイトより

【LapizOnlin】ダーウィンは環礁(アトール)の形成過程を次のように考えました(「沈降説」)。海底火山の噴火によってできた火山島の周囲にサンゴ礁が形成されると裾礁(きょしょう)となり、それが沈降するとサンゴ礁だけが上に成長して島を環状に囲む堡礁(ほしょう)ができ、元の火山島が海面下に没して周りのサンゴ礁だけが残ると環礁になるのです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その151《大東隆起環礁》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その150《オガサワラシジミ》渡辺幸重

絶滅の危機に瀕するオガサワラシジミ(東京大学総合研究博物館サイトより)

LapizOnline】「○○シジミ」という名前が付いた動物の種類は何でしょうか。私は貝のシジミを連想してしまいますが、私たちがよく目にするのは蝶類すなわちシジミチョウの仲間です。そのうちの一つ、小笠原諸島(東京都)の固有種であるオガサワラシジミが今、絶滅の危機に直面し「国内で最も絶滅リスクの高いチョウ」と呼ばれています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その150《オガサワラシジミ》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その149《裸の島》渡辺幸重

裸の島』の1シーン(「普通人の映画体験―虚心な出会い」サイトより)

【LapizOnline】--モノクロ画面には単調なメロディーが物憂げに流れている。風景は乾いた小島の畑。その中を、重い水桶2つをしなった天秤棒に下げた夫婦が天まで耕された急斜面の畑を登る。そして野菜に水を与える。ただただその作業が繰り返される画面が続いた。

映画『裸の島』(1960年、新藤兼人監督)にはセリフが一切なく、夫婦がただ黙々と働く光景が延々と続きます。瀬戸内海の孤島で暮らす家族の生活を描いたこの作品は1961年モスクワ映画祭でグランプリを受賞、世界60か国以上で上映されました。そのロケ地は瀬戸内海に浮かぶ面積0.0142平方キロの宿祢島(すくねじま:広島県三原市)です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その149《裸の島》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その148《佐渡金山》渡辺幸重

佐渡島の金山」採掘作業の様子(「日本の国内旅行ガイド700箇所」より)

今年(2024年)の7月27日、「佐渡島(さど)の金山」として佐渡金山遺跡(新潟県佐渡市)がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されることが決まりました。日本では「琉球王国のグスク及び関連遺産群」や「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連」などに続く21件目の世界文化遺産になります。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その148《佐渡金山》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その147《収容所生活》渡辺幸重

収容所生活/生活風景(食事)(那覇市歴史博物館提供)

沖縄戦で米軍に占領された地域には捕虜や民間人の収容所があり、1945(昭和20)年の9月から10月頃には12か所の収容所で約30万人の民間人が米軍の管理の下に生活していたそうです。沖縄で米軍が最初に上陸した慶良間(けらま)列島では、米軍は座間味に司令部を設置するとともに座間味島や慶留間島(げるまじま)に収容地区を設けて住民を管理下に置きました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その147《収容所生活》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その146《大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判》渡辺幸重

大江健三郎著『沖縄ノート』

【LapizOnline】第二次世界大戦中の沖縄戦を説明するときよく使われる「集団自決」という言葉は戦後発行された『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社 編著)で太田良博が初めて使った言葉だそうです。戦争中に使われていた「玉砕」「自決」「自爆」などの言葉を言い換えたものですが、「自決」とは軍人用語であり、事件は住民の自発的行為ではなかったということから「強制集団死」という言葉が多く使われるようになりました。ただし、今回は「集団自決」という言葉を使った事件を扱うのでそのまま使うことにします。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その146《大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判》渡辺幸重” の続きを読む