Opinion《ヘイト》一之瀬明

何気なくハンギョレ新聞(韓国)を読んでいたらこんな記事を見つけた。
「彼らのカメラが恐怖」…日本の差別主義者に狙われるクルド人
https://japan.hani.co.kr/arti/international/52448.html
記事の内容は上記のURLをコピーしていただき読んでもらえればよくわかる。衝撃的な写真も掲載されている。 “Opinion《ヘイト》一之瀬明” の続きを読む

とりとめのない話《何もない風景》中川眞須良

【LAPIZ ONLINE】何かのきっかけで行ってみたい場所ができることは日常ごく自然だ。初めての場所 名のある場所 思い出の場所など色々だがその内容、その時の必要性によって行動を起こす順位が決まってしまうが、その都度後回しにされる。 “とりとめのない話《何もない風景》中川眞須良” の続きを読む

エッセー《彼岸(ひがん)と此岸(しがん)》片山通夫

イメージ

「彼岸だそうで。」

なんだか知らないが三途の川を挟んだ向こう岸が彼岸、こちら側が此岸と言うわけらしい。彼岸には春と秋があり、季節の変わり目ともいわれる。古来、「暑さ寒さも彼岸まで」とも言ったようだ。暑さ寒さの中間点、また昼と夜との時間の長さも同じときを行ったものだったが昨今はそうはならない。
彼岸とかいう考え方は仏教の教えがあって、供養や修行をするにはふさわしい時期という考え方がある。そしてなぜか春のお彼岸には「ぼた餅(牡丹餅}」、秋のお彼岸には「おはぎ(萩)」を、仏さまにお供えして供養する習わしがある。 “エッセー《彼岸(ひがん)と此岸(しがん)》片山通夫” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その161《藤原純友の乱》渡辺幸重

 

日振島全景(「iyomemo」サイトより)

平安時代中期に関東で平将門(たいらのまさかど)の乱が、瀬戸内海で藤原純友の乱が起きました。ほぼ同時期に起きた2つの乱は合わせて「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」とも呼ばれます。当時の朝廷貴族たちを震撼させ、武士の勃興を促した乱ですが、藤原純友は瀬戸内海西部の海賊集団を率いて愛媛県宇和島港の西南西約24kmの宇和海に浮かぶ日振島(ひぶりじま)を拠点にし、朝廷側と戦いました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その161《藤原純友の乱》渡辺幸重” の続きを読む

編集長が行く《東京・江東地区 下》文、写真 井上脩身

今はスカイツリーのお膝元

『東京大空襲』の表紙

【LAPIZ ONLINE】1月上旬、わたしは早乙女さんの『東京大空襲ものがたり』と『東京大空襲』を携え、本稿に登場する現場をたずねた。
地下鉄浅草駅を降り、さいしょに言問橋に向かい、次に焼け残り電柱の現場をたずねた。本稿の趣旨に合わせ、まず電柱のことを書いておきたい。
焼け残った電柱は浅草駅南西約1キロの、幅5メートルほどの通りの角にポツンと立っている。何かの工事の作業員4、5人が通りかかったが、この電柱に目もくれない。写真を撮っていると、ベビーカーを押す女性がけげんそうな顔をして通りすぎた。電柱を実際に目にして気づいたことだが、底部は高さ50センチ、幅20センチの穴状になっており、下部は空洞になっているとおもわれた。おそらく焼夷弾が直接当たって燃えた痕跡であろう。B29が超低空飛行していた証拠といえるのかもしれない。 “編集長が行く《東京・江東地区 下》文、写真 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《東京・江東地区 上》文、写真 井上脩身

東京大空襲の現場をたずねて

街角に立つ焼け残った電柱

東京・台東区の下町に黒焦げの丸太が立っていると聞いた。1945年3月10日の東京大空襲によって焼けた電柱だという。調べてみると、作家、早乙女勝元さんがこの電柱をもとに童話『東京大空襲ものがたり』(金の星社)を書いていたことがわかり、さっそく読んでみた。電柱によじのぼって助かった少年が、大人になった後年、電柱にまつわる悲しいできごとを語るというストーリー。電柱は今に残る大空襲の生き証人というのだ。ずいぶん前、わたしは早乙女さんの代表作『東京大空襲』を岩波新書で読んだおぼえがある。東京大空襲から100年の節目の日を控えて、電柱に会いにいくとともに、『東京大空襲』の舞台となった惨劇の跡地をたずねてまわった。 “編集長が行く《東京・江東地区 上》文、写真 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《峠・地図ブラ歩き》中川眞須良

峠  (地図ブラ歩き)

ホハレ峠

【LAPIZ ONLINE】峠は変化変容の場である。即ち分かれる場である。風が変わり、気温が変わり、湿り気、匂い。水の流れ、そして、咲く花の時期まで変わる。変わるのは自然だけではない。人は、出会い・別れ、何かを見つけ確認する。 “とりとめのない話《峠・地図ブラ歩き》中川眞須良” の続きを読む

びえんと《レイテ島決戦の陰で泣く慰安婦 下》文・井上脩身

絵画集【LAPIZ ONLINE】

びえんと《レイテ島決戦の陰で泣く慰安婦 中》文・井上脩身

【LAPIZ ONLINE】以下そのおもな記述と絵を紹介したい。説明の絵は次ページにまとめました。
【暮らし】
父親は農夫でココナツなどを植えていた。生活は貧しいものではなく、家族は向上心を持ち、しあわせにくらしていた。(明るい家の前で、縄跳びなどで姉妹が楽しく遊んでいる)
【爆撃】
「日本軍が来る」というので山に家を建てて避難したところ、日本軍の飛行機が一日中、山に爆撃を加えた。機銃掃射がつづくなかを逃げ回り、フェリアスさんは走り疲れてココナツの下に座りこんでしまった。(避難小屋付近に爆弾を落とす戦闘機。逃げまどう姉妹。男性は父親か?)
【ゲリラ掃討】
日本軍はヒブナハン村にゲリラ掃討に向かい、ゲリラ兵と戦闘。多くのゲリラが殺された。戦闘のことを知ったのは、父が戦闘に加わって日本兵と戦ったから。(ココナツ畑での戦闘。銃剣で日本兵に突き刺された抗日ゲリラ兵が血まみれになって倒れている)
【捕まる】
日本兵が村にやってきたので裏庭から逃げようとして、うちまたを有刺鉄線に引っかけた。「お父さん、お母さん、助けて」と泣き叫んでいると日本兵に捕まった。日本兵は平手打ちを浴びせ、銃口で頭を殴りつけたうえ、その場で強姦した。(フェリアスさんは、有刺鉄線が張られたヤシの植わる庭で銃を手にした日本兵に捕らえられる。彼女のうちまたから血がながれている)
【ムチ打ち】
日本兵は血を洗い流すためにフェリアスさんを川に沈めたあと駐屯地に連れていった。そこで1本の木に縛り付け、ムチで打った。このあとフェリアスさんは病院に連れていかれた。(ヤシとおもわれる木に縛られたフェリアスさんは、内まただけでなく顏からも出血している)
【牢屋】
連れていかれたのは病院の横の牢屋。3人の女性が閉じ込められていた。日本兵が薬を持って来て、性器の傷を洗った。薬がしみて悲鳴を上げると、女性が「叫ぶと殺される」と忠告しれくれた。(隣のページには病院が描かれている。傷病兵のための野戦病院であろう。その脇に捕まえた女性たちの性器を洗ったりするための小屋を建てたのであろう)
【強姦】
性器の傷が治ると洗濯をさせられ、その後、日本兵が連れ出した。従わないと容赦なく暴力を振われ、強姦された。日本兵は強姦するために列をつくった。(ヤシ畑で強姦されている。日本兵はヤシの木のもとに衣服を脱ぎすて、銃を放置したまま、女性を乱暴している。屋外で行われたことを示す衝撃的な絵である)
【米軍病院】
ある日、アメリカ軍の飛行機が爆撃をはじめたので、日本軍の防空壕に逃げ込んだ。3人の日本兵がいて、フェリアスさんを見るやいなや、強姦した。爆撃がおさまると、日本兵に出ていくように言われ、外に出るとアメリカ軍に保護された。そしてフェリアスさんはアメリカ軍の病院に収容された。(中央に看護師らしい女性が描かれている。その左の女性患者の髪が長いことから、この患者がフェリアスさんとおもわれる)
フェリアスさんが描いた最後の絵は4人の子どもと一緒にいる家庭内の様子。末の1歳の子どもを抱きかかえたフェリアスの顔には安堵感がただよう。フェリアスさんは「性奴隷にされたことは忘れられません。ですから、わたしは日本軍の犯罪によって失われた正義を取り戻すために名乗り出て、ずっと闘い続けているのです」と綴っている。

市街戦さなかに性加害事件

竹見さんは『もうひとつのレイテ島』のなかで、フェリアスさんのように慰安婦であったことを名乗りでた女性は150人を超えたと解説している。フェリアスさんが慰安婦であったために結婚が破綻したことからもわかる通り、名乗りでることができなかった女性もかなりいたにちがいない。そう考えて調べてみると、レイテ島決戦から3カ月半後の1945年2月、マニラ市街戦のさなか、「ベイビューホテル事件」と呼ばれる日本軍による性加害事件が起きたことを知った。
レイテ島決戦で日本軍を壊滅させたマッカーサーはルソン島奪還を決行、マニラでは2月3日から1カ月間、市街戦が繰り広げられた。米軍が3万5000人の兵を投入したのに対し、日本軍は海軍1万人、陸軍4300人で防戦、日本軍の1万2000人が戦死、民間人10万人が巻きこまれて死亡する悲惨な結果になった。
日本軍にとって展望の全くない市街戦が繰り広げられているさなかの2月9日、市内で火災が発生した。広場に集められた女性と子ども400人以上が広場北側のベイビューホテルに連れていかれ、複数の部屋に数十人に分けて押しこまれた。やってきた日本兵が懐中電灯で若い女性を選び、別の部屋に引きずり出して性的暴行。朝になると兵は戦闘に出かけたが、見張りがいたために逃げだせなかった。10、11日にフィリピン人女性とみなされた100~200人が二つのアパートに移動させられ、そこでも 日本兵によって乱暴された。日本兵は日中に戦闘に出て、夜間は女性暴行を繰り返したのだ。女性たちが解放されたのは監禁4日目。しかし、家に隠れていたとこを見つけだされたり、外を逃げ回っているうち日本兵と出くわしたりして強姦されたケースもあった。
関東学院大の林博史教授はこの事件を調査し、2012年、「マニラ戦とベイビューホテル事件」と題して論文を発表。そのなかで当時24歳の女性の証言を取り上げている。それによると、この女性が日本兵に拉致されて連行された部屋には3人の日本兵がいた。1人が強姦している間、ほかの2人は笑っていた。彼女は抵抗したが顏を殴られ、3人に強姦された。3人の日本兵が部屋から出ていったが、別の日本兵に捕まり同じ目にあった。その夜、十数回強姦された。
日中戦争でも日本軍兵士による強姦事件が起きていたことが近年の研究で明らかになっている。「中国における性暴力の実態を明らかにし、賠償請求裁判を支援する会」(略称「山西省・明らかにする会」)の調査によると、中国・八路軍が中国東部、山西省孟県の日本軍支配地に大規模な攻撃を仕掛けたのに対し、日本軍は燼滅作戦を展開した。燼滅作戦は敵の殲滅だけでなく、敵性ありと判断した住民の殺戮をも行うもので、この一環として1939年から1942、43年にかけ、女性に対する強姦や輪姦を行った。同会の2003年までの18回の現地調査で、被害女性9人が「いきなり日本兵に拉致され、慰安施設に連れていかれた」などと証言、ほかに遺族や家族ら20人が日本兵の蛮行を語った。

竹見さんは「日本は植民地や占領した地域から10万とも20万ともいわれる女性を狩りだして慰安施設に送りこみ、日本軍兵士に性的な奉仕をさせていた」という。政府は「慰安婦を集めたり、慰安施設を設けたのは民間人」として、軍を挙げての慰安婦政策であったことを否定している。しかし、本稿で示した例でもわかるように、慰安施設のあるなしにかかわらず、日本兵はいきなり拉致して性的暴行を繰り広げたのだ。戦争という非人間的な事象のなかで起こった事件であって、兵隊個人の犯罪にとどまらず、戦争を起こした国家の犯罪ととらえるべきであろう。
日本軍の多くは玉砕し、兵士は「名誉の戦死」をした。加えて特攻隊員は「お国のために命をなげうった英霊」として、知覧特攻平和会館(鹿児島県)で紹介展示されている。その陰で、性奴隷にされた女性たちがいた事実は闇にほうむられてきた。
戦後80年を迎える今年の8月15日の終戦記念日。閣僚や首相の座をうかがう有力政治家は靖国神社に参拝するだろう。そして「お国のために犠牲になった人たちのおかげで日本の平和と繁栄がある」と述べるにちがいない。そうした政治家が性奴隷になった女性に思いをいたすことはないであろう。これが我が国の政治の現実である。わたしが生まれて80年。何も変わっていないのだ。愕然とする。(明日に続く)