光と影の彩なす一瞬《生月島に見るカクレキリシタン》002

生月では享保10年(1725)から舘浦の田中長太夫と畳屋又左衛門正勝の共同経営の鯨組による突取捕鯨が始まる。田中長太夫が経営を退いた後は、漁場を島北端の御崎に移し、網をかけて鯨の行き足を止めてから突き取る漁方(網掛突取法)を採用、畳屋氏は平戸の殿様から益冨という姓を頂く。
その後益冨組は壱岐をはじめ西海各地の漁場に進出し、文政年間(1818年頃)には、5つの鯨組を経営するまでになり、西海のみならず日本一の規模を誇る鯨組へ発展、益冨組が享保10年から明治6年までの間の142年間(中断期を含む)に捕鯨した鯨は21,790頭、収益は332万両に達し、最盛期には3千人以上の人々が働いていたと推定。網組による捕鯨の終了後も、平戸瀬戸などで、捕鯨銃で破裂弾を撃ち込む銃殺捕鯨が細々と続けられてきた。その後、明治時代の終わりには鰯巾着網が捕鯨に代わる島の基幹産業となった。

 

光と影の彩なす一瞬《生月島に見るカクレキリシタン》001

 過日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。
ここにいう「潜伏キリシタン」と「カクレキリシタン」の区別がなされていることに注目したい。

「カクレキリシタン」とは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫であり、1873年に禁教令が解かれて信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。一方、今回の「潜伏キリシタン」は禁教の掟が解かれた後にカトリックに戻った人々を指すと言えば理解できよう。写真は平戸市切支丹資料館