吹雪をついて人々は集う。そして、ただただ踊る。
「樺太夢幻」012
冬の話。
樺太の冬は厳しい。氷の世界だ。氷の世界では海にも畑にも行くことはできない。人々は集って長い冬をやり過ごす。踊り、歌いそして笑って。
「樺太夢幻」011
朝鮮人が樺太にわたってきた時に携えていたという辞書。
「樺太夢幻」010
「樺太夢幻」009
樺太開拓の一環として、パルプ工場が石炭産業とともに多く造られた。
そして、現在もその工場跡が随所にみられる。写真は真岡(ホルムスク)の王子製紙真岡工場
王子製紙の歴史:王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社は、従来から競合しつつもしばしばカルテルを結んで協調行動をとっていた。1920年代末になると市況の悪化で、特に富士製紙・樺太工業の業績が悪化する。1929年(昭和4年)に王子製紙は富士製紙の株式を買収して筆頭株主となり、富士製紙の業績建て直しを支援するようになる。また、1930年頃から樺太工業側から王子製紙へ合同を打診していた。市況と各社の状況から、これ以上の消耗を回避し、なおかつ従来以上の市況統制として3社の合同が構想され、巨大トラストである「大王子製紙」発足へと至ったのである。(ウキペディア)
「樺太夢幻」008-3
内淵炭鉱構内 石炭を運ぶ炭車やレールなどの設備は樺太の時代のものだと聞いた。
「樺太夢幻」008-2
内淵炭鉱の前を内淵川が流れる。今はナイバ川とその名を変えた。内淵の意味はアイヌの言葉で「ナイ・プチ」と言って河口を意味する。
「樺太夢幻」008
豊原(ユジノサハリンスク)から大谷(ソコル)を過ぎて北へ行くと落合(ドリンスク)という町に出る。そして落合から左へ、つまり西のほうへ進むと内淵(ブイコフ)という炭鉱がある。ここは樺太時代には帝国燃料興業が開発した炭鉱だった。帝国燃料興業は樺太人造石油を合併し、樺太内淵に工場を建設し内淵石炭を用いて直接液化を行なった。
人造石油:石油原油以外の原料からつくられた石油の類似物。石炭の低温乾留、石炭と水素の高温・高圧反応などの製法がある。石油資源不足の際に製造された合成石油をいう。
「樺太夢幻」007
豊原(ユジノサハリンスク)と真岡(ホルムスク)を結ぶ道路沿いにある真岡郡清水村瑞穂 (ホルムスク市管区(ロシア語)パジャルスコエ(ロシア語)の神社跡にあった。またこの瑞穂で虐殺事件が起こったことでも知られている。
事件は日本の敗戦時、すなわち1945年8月11日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太への侵攻を開始した(樺太の戦い)。敷香町北部では国境を越えてきたソ連軍と日本軍(大日本帝国軍のこと。以降も同様)との戦闘が、日本(大日本帝国のこと。以降も同様)のポツダム宣言受諾後の8月15日以降も続いていた。ロシアに残る資料によると、日本人たちは、呼び出した一人の朝鮮人をまず惨殺し、さらに朝鮮人を皆殺しにする計画を立て、翌日、三人を殺害し、ますます凶暴になって、朝鮮人が住む住居を襲った。日本人の細川博が後のソ連軍の裁判で行った証言記録によると、逃げて出てきた朝鮮人をサーベルでたたき切り、仲間とともに女子供も同じように殺した。こうして朝鮮人27人が虐殺された。
以下の写真説明(上)虐殺事件のKGB調書コピー
(下)犯人の一人細川博の調書へのサイン
「樺太夢幻」006
明治政府は樺太開拓に北海道拓殖銀行を起用した。左の写真は今はサハリン州立美術館の「北海道拓殖銀行豊原支店」と、右の「大泊支店」。いずれも頑丈な石造である。大泊支店は現在利用されていない。