編集長が行く《関東大震災と横浜・関西村 #2》文・写真 井上脩身

関東大震災で壊滅状態になった横浜市中心部(ウィキベテアより)

関西府県連合病院と小学校
震災が発生した日の夕方、森岡二朗・神奈川県警察部長は、横浜港から海を泳ぎ、東洋汽船の貨物船これ丸の無線を借りて東京府に救援を要請。応答がなかったため大阪府知事あてに「本日正午、横浜に大地震、ついで大火災あり。全市炎上。死傷おびただし」と打電。この無線が各地で傍受され、地震による惨劇が世界中に流れた。森岡警察部長の一報を受け、1日午後11時ごろ、大阪府は幹部を招集、府警警部、大阪市助役をはじめ、府市職員、警察官、医師ら240人の救援隊を船で派遣することを決定。2日午後2時すぎ、救援隊員に加えて救援物資を積んだ大阪商船のシカゴ丸が出航。3日午前、関西各府県が大阪府庁で協議、震災救護関西府県連合が結成された。現地に派遣した職員の報告を基に、5日午前、大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、高知、愛媛、徳島、石川、島根、鳥取の2府11県で協議し、救援事務所の設置や支援物資の輸送、義援金の分担や事務分担などの概要を決定した。
被災地の衛生状態が悪化していることから、大阪府がバラック23棟、受け入れ患者1000人規模の仮設病院の計画を立てたところ、京都などの各府県が賛同。病院のスタッフとして、医師22人、調剤師7人、看護師100人など176人が派遣された。こうして26日までに「大阪府外一府六県聯合横濱假病院」が完成、10月1日、開院した。
9月27日からバラックの建設を始め10月27日までに全てが完成、横浜市に引き渡された。これらの施設を総称した公式名は「関西府県聨合被災者救援施設」だが、被災住民たちは「関西村」と呼ぶようになる。本稿では以降「関西村」と記す。
関西村は面積約1万1000平方メートル。被災者収容所52棟、病院13棟、役場、小学校2校(5棟)、警察署、消防署、食堂、市場、公会堂、日曜学校、図書館、倉庫などからなる。「村」というのもなるほどである。
このなかで最も注目されるのは病院であろう。命からがら助かったものの、食料や水が不足するなか、病気を患ったり、火傷などのケガを負った人は少なくないからだ。
病院は病院棟と8病舎などからなり、最大451人の入院館患者が受け入れられる規模。10月1日から12月20日までの患者数は、新患9192人、再来21703人、入院1254人。消化器系の疾患や伝染病患者が多かった。
被災者を収容する仮設住宅については、1棟が約200平方メートル。各戸は4~5畳の部屋4室からなり、1棟あたり28戸で構成されていた。2000人が暮らしていたという。住宅の区画ごとに「大阪通り」「愛媛通り」「石川通り」「滋賀通り」「京都通り」「兵庫通り」「和歌山通り」「奈良通り」と名づけられた。
小学校は南吉田第二尋常小学校(震災前の児童数1760人)と第三尋常高等小学校(同2006人)。両校とも石油貯蔵倉庫の近くにあったため校舎が全焼していた。11月15日から仮設校舎で授業を再開。再開時の児童数はそれぞれ741人、1240人。翌年1月には992人、1502人に増えたが、戻ってきたのは震災時の5~7割にとどまった。震災の犠牲になったり、ほかの所に移った児童が少なくなかったのだ。
食堂は義援金によって建設された。毎日3食が提供され、1日平均19人が利用。図書館は横浜市図書館の蔵書1万数千冊が灰になったためにつくられた。佐賀県立図書館や大阪市立図書館などから寄贈された書籍も交えて、12月16日から閲覧を始めた。
興味をひくのは、「村」の自治組織がつくられたことだ。横浜市の係長が村長を務め、警察署、消防署、病院、小学校の担当者に加えて、各通りから選出された村議26人で構成され、村の維持、管理を図った。
【明日に続く】