編集長が行く《関東大震災と横浜・関西村 #1》文・写真 井上脩身

関西村をテーマに開かれた講座

横浜市の地下鉄の掲示板に「関西村」と記されたチラシがはられていた。横浜と関西?
意外な取り合わせに目がとまった。関東大震災で甚大な被害を受けた横浜市の中心部に、関西の府県が被災者のための救援村をつくり、ハマっ子たちから「関西村」と呼ばれた。100年後の今、その事実が横浜市民に知られていないので講座を開く、というのがチラシの趣旨であった。関西人である私も「関西村」の存在は知らなかった。9月中旬、横浜市南図書館(横浜市南区)で開かれた講座を受講したのであった。

横浜の中心部が焼失

関東大震災については、東京・横網町の陸軍被服廠跡での悲劇や、朝鮮人虐殺がメディアで取り上げられることが多く、わたしも都立横網町公園(東京都墨田区)をたずねたり、朝鮮人虐殺を目撃して描かれた絵を見るなどして、震災の悲惨さを感じてきた。しかし、東京の隣の横浜での出来事はほとんど語られることがなく、わたしは全く関心を払わなかった。
関東大震災の本震が発生したのは1923年9月1日午前11時58分。震源は相模湾北西部でマグニチュード7・9。この後、1時間足らずにのうちにマグニチュード6・4~7・3の余震が6回も起き、死者・行方不明者が10万5000人に及ぶ歴史的大災害となった。
このうち東京市(おおむね現在の東京23区、人口220万人)の死者・行方不明者が68600人であるのに対し、横浜市(人口45万人)の死者・行方不明者は26600人。横浜市は東京市に比べ、人口は17分の1なのに、死者・行方不明者は5分の1にのぼった。人口比でみると、横浜市の被害は格段に大きかったのだ。その主な理由は石油類の貯蔵地から火災が発生、関内など同市中心部一帯が壊滅状態になったことにある。
松本洋幸・大正大学教授(日本近現代史)の論文『横浜の「関西村」について??震災救護関西府県聯合のバラックとその後』(横浜市資料室紀要第5号、2015年発行)によると、開港間なしの横浜港から2キロしか離れていない中村地区に1877年、揮発物貯庫がつくられることになった。富国強兵の国策にのって石油の輸入量が増え、震災時には石油貯蔵倉庫は28棟にのぼった。震災によって発生した火災で貯蔵倉庫が類焼し、石油6万6000箱、揮発油8万箱が炎上。大音響とともに火炎が空中高く舞い上がり、前を流れる中村川に落下した。橋や舟が燃えたため、逃げ場を失って小学校に集団で避難した住民たちが焼死。周辺一帯は火の海と化し、火は1週間燃え続けた。
焼失地区には市役所、警察、消防、病院をはじめ公的機関が集まっており、都市としての機能が全滅。通信設備も打撃を受けて情報は途絶し、被害状況の把握や、救援活動どころでなかった。
ここまでが講座に先立ってわたしが得た予備知識である。以降の記述は、講座の講師を務めた横浜市八聖殿郷土資料館の相澤竜二館長の講座テキスト『関東大震災から横浜復興の礎となった関西村』と松本教授の論文からの引用である。
【明日に続く】