日本の宗教弾圧としてはキリシタンに対する弾圧事件がよく知られていますが、仏教界でも繰り返し起きており、その弾圧事件はよく“法難”と呼ばれます。特に一向宗(浄土真宗)信徒が武士・領主の苛烈な領民支配をするに対して戦った「一向一揆」は有名で、加賀(石川県)においては1488(長享2)年に約20万人の一向宗信徒が立ち上がり、守護大名を倒してその後100年にわたって農民・信徒が「百姓ノ持チタル国」として支配しました。織田信長はその勢力を恐れて一向宗を徹底的に弾圧し、石山本願寺を本拠地とする浄土真宗本願寺勢力と11年間にわたって争った石山合戦(1570~1580年)では本願寺を焼き尽くし、多くの信徒を殺しました。江戸時代にも薩摩藩と人吉藩は一向宗を厳しく禁じて弾圧し、“法難”は藩内の島々にまで及びました。
薩摩半島の西の海に浮かぶ甑島(鹿児島県薩摩川内(せんだい)市)は一向宗の拠点の一つでした。薩摩藩では1835(天保6)年に「天保の法難」、1862(文久2)年に「文久の法難」という大きな弾圧事件がありましたが、甑島はその主な舞台になりました。。天保の法難では薩摩藩全体で約14万人が処分の対象となったといわれており、甑島では下甑島の長浜村が焼き払われました。文久の法難では甑島の多数の信徒が取り調べられ、拷問を受けたそうです。長浜地区の洞窟内には遺跡「隠れ念仏跡」があり、藺牟田(いむた)地区には「甑島念仏発祥之碑」が建てられています。
薩摩藩が一向宗を禁止したのは1597(慶長2)年に島津義弘が発した二十か条の置文から始まり、以降1876(明治9)年に真宗禁制がとかれるまでの約300年間続きましたが、領内で弾圧が始まったのは16世紀中頃、終わったのは西南戦争のあととも言われています。
信徒に対しては石を抱かせるなどの拷問を加えて改宗を迫り、従わないと処刑や流罪にしました。信徒の中には密かに洞窟などで祈りを捧げるなどして信仰を続けた人たちも多く、その行為や信徒集団は「隠れ念仏」と呼ばれます。