現代時評《卑劣な差別者と闘う女性オバマ》 井上脩身

アメリカ大統領選はトランプ前大統領とハリス副大統領の対決となり、9月10日、両候補がテレビ討論会で相まみえた。いささか冗漫な論戦に飽き飽きしだしたころ、トランプ前大統領の口から信じがたい言葉が飛び出した。「移民がペットを食っている
というのだ。「移民は野蛮人」とばかりの下劣な差別発言である。大統領時代、非白人である中南米からの移民排除政策をとってきたトランプ前大統領といえども、「平等」が民主主義の根本原理であることを知らないわけではあるまい。にもかかわらず、平然と発せられた今回のペット発言は、彼が政治的な欠落者にとどまらず、人格的な欠落者であることを示している。このような人物が再び大統領に選ばれるならば、アメリカ史最大の汚点になるに相違ない。 討論会はハリス副大統領が「新たな世代にリーダーシップをもたらすためのページをめくろう」と未来への道を強調したのに対し、トランプ前大統領は「なぜ副大統領として政策を実行しなかったのか」などと、バイデン政権の政策にこだわった。全体として非難合戦に終始し、いささか期待外れの対決であった。こうしたなか、トランプ前大統領は移民問題に焦点をあて、「不法移民の大半は犯罪者」と主張。「(中西部オハイオ州)スプリングフィールドでは、アメリカに流入してきた人たちが犬を食べている。猫も食べている。住民のペットを食べているのだ」と語った。司会者が「市当局者は『そんな証拠はない』と証言している」とたしなめたが、トランプ前大統領は意に介さなかった。
「ペットを食う移民」については、後にSNSに投稿されたニセ情報と判明したが、トランプ前大統領にとって、移民排撃の材料になるなら真偽はどうでもよかったのであろう。テレビ討論会の3日後、ニセ情報の舞台であるスプリングフィールドについて「(街が)不法移民に乗っ取られた」と言いだした。スプリングフィールド市を中心とするクラーク郡には1万2000~1万5000人の移民がおり、ハイチからの移民は合法的に居住しているといわれる。トランプ発言はハイチ移民を標的にした形となり、ハイチ政府は「差別発言に深い懸念を表明する」との声明を出してトランプ前大統領を批判した。

私はテレビ討論会の前日、映画『小さな巨人』をテレビ録画で見た。ダスティン・ホフマンが扮する先住民に育てられた白人が、先住民集落と騎兵隊を行ったり来たりする異色西部劇。騎兵隊の隊長が「野蛮人め、皆殺しだ」と命令して先住民集落に突入、女性や子どもも含めて皆殺しにする場面は、目をおおいたくなるほどの残忍さであった。
私はトランプ前大統領の「移民ペット食う」発言に、騎兵隊長の「野蛮人め、皆殺しだ」という叫び声が重なった。「西部開拓」の名のもと、細々と暮らしていた先住民を「野蛮人」として抹殺してきた白人たち。その差別意識が、時代を超えて今、トランプ前大統領の移民差別意識につながっているとしか思えない。
1年前、知人が「先住民と間違えられ、バスの運転手が停留場に止めてくれなかった」と30数年前のアメリカ・コロラド州での体験を語ってくれたことから、私は先住民差別について調べてみた。すると1988年に発表された中村敬氏(成城大学名誉教授)の論文「アメリカン・インディアンの差別と言語の問題」に出合った。同論文は、アメリカで使用中の当時の小学生の読本を例示。その中で、インディアンを皆殺しにしてしまう勇ましい話に少年が熱心に聞き入る場面が載っているという。インディアンは人間以下の存在なので、殺戮の対象になっても当然、という考えが教育の中にまだ残っているというのだ。
この論文から35、6年がたっており、現在の学習教材に使われているかは定かでない。ただ、中年以上の年齢の人は先住民差別教育を受け、少なからざる人が、西部劇で先住民をやっつける場面に拍手喝采したのである。当然、トランプ前大統領もこうした教育を受けたであろう。いったん心の奥にしみ込んだ非白人に対する差別意識は簡単に抜けるものでない。先住民が200万人しかいなくなったなか、差別の矛先が移民に向かったのであろう。

トランプ前大統領の差別発言は今に始まったことではない。2019年、民主党下院議員4人に「もとの国に帰れ」とツイート、下院が「人種差別的な発言」と非難する決議が賛成240票、反対187票で可決される事態になった。だが、今回のトランプへ発言はこれまでになく野卑、下劣である。ことさらハイチ移民をやり玉にあげようとしたようにも思える。ハリス副大統領の父がジャマイカ出身のアフリカ系黒人だからであろうか。
ジャマイカはカリブ海のなかのハイチの隣の島国だ。トランプ前大統領はハイチ移民を野蛮人視することで、ハリス副大統領もまた野蛮人の血が流れている、との印象を植え付けようとしたのではないのか。ここまで書いてはたと気が付いた。テレビ討論会で、ハリス氏はかなりの時間、トランプ前大統領に顔を向けていたが、トランプ前大統領がハリス氏に顔を向けることは全くなかった。悪意に満ち満ちた差別発言をするとなると、さすがに顔を向けることはできなかったのであろう。もしそうであれば下劣も極みというほかない。
ハリス氏は討論会のなかで、トランプ前大統領が2020年の大統領選での負けを認めていないことを挙げ、「世界の指導者が笑っている」と述べた。その通りだが、もはや笑っているときではない。まかり間違えば、野卑な人種差別者が世界のリーダーたるべきアメリカの大統領になってしまうのだ。もしそんなことになれば、「人権」は死語同然になるのである。

各種世論調査ではハリス氏がトランプ前大統領を2~4ポイント上回っている。だが、トランプ前大統領は2016年の大統領選で、世論調査でリードされていた女性のヒラリー・クリントン氏に勝利した。この事実は、アメリカの保守層のなかに、合衆国のトップの座に女性がつくことに抵抗感を持つ人が少なくないことを示したのであった。ハリス副大統領は世論調査にはあらわれない、人種差別意識に加えて、女性大統領拒否感とも戦わなければならないのである。
世論調査には表の顔で回答し、投票箱には本音を投げこむのが選挙だ。差別者トランプ支持とは言いにくい白人有権者のなかに、トランプ前大統領に投票する者が少なからずいる。したがってハリス氏は世論調査で少なくも5ポイントはリードしていなければ心もとない。黒人初の大統領になったオバマ氏の場合「ブラックケネディー」のキャッチフレーズが効いた。女性初の大統領を目指すハリス氏にもパンチ力あるキャッチフレーズが求められる。「卑劣な差別者と闘う女性オバマ」というのはどうだろう。