――飯塚事件にみる司法の犯罪――
【LapizOnline】32年前、福岡県飯塚市で小学生の女児2人が殺害された飯塚事件の再審請求審で、福岡地裁は6月5日、再審を認めない決定をした。事件の犯人とされた久間三千年さんは、判決が確定後に死刑を執行されており、死刑後に無実となる初のケースでは、と期待されたが、裁判官は「死刑制度護持」という国家のメンツにしばられたのだ。私は以前、「びえんと」のなかで京アニ事件を取り上げたさいに飯塚事件にも触れ、「報復主義に基づく死刑制度を考え直すよう」求めた。もし久間さんが無実であるならば報復される理由すらない。再審をすべきかどうかを判断するにさいし、「誤った死刑執行ではなかったか」との思いが裁判官の頭の片隅にすらないならば、「無辜の救済」という再審の理念は空念仏になる。
「京アニ事件で思う死刑の是非」と題した拙稿では、飯塚事件について概要、次のように記した。
1992年2月、飯塚市で小学1年生の女児2人が登校中に行方不明になり、翌日、遺体で発見された。被害者の失踪現場付近で自動車を見たという目撃証言から久間さんが逮捕された。久間さんは一貫して犯行を否認したが、福岡地裁は被害者の体に着いていた犯人の血液のDNAが久間さんのDNAと一致しているとして死刑判決を下した。2006年、最高裁で久間さんの死刑が確定した。このDNA鑑定は足利事件で行われたのと同じMCT118鑑定と呼ばれるもので、その信用性に疑義が生じたことから、足利事件では再鑑定が行われることとなった。そうした矢先、久間さんの死刑が執行された。
久間さんの遺族が再審請求を行ったが、2021年、最高裁が特別抗告を棄却。遺族は新たな目撃証言に基づいて福岡地裁に第2次の再審請求を行った。
記述は以上である。補足すると、判決ではDNA鑑定の一致に加えて、久間さんの車と特徴が似た紺色ワゴン車が失踪現場と女児の衣類などの遺品が遺棄された場所付近で目撃されていることをあげていた。
第2次の再審請求審で弁護側が新たな証拠としたのは2点。事件当日、通学路で被害者の女児2人を最後に見たとされる女性の、「目撃したのは事件当日でなかったのに、捜査機関に無理やり、記憶と異なる調書が作成された」との、調書記載事実否定証言。もう一点は70代男性の「事件当日、久間さんとは別人が運転する白の乗用車に女児2人が乗っているのを見た」という証言。弁護側は「新証言により、連れ去られた場所や日時が特定できなくなった。紺色ワゴン車と事件は結びつかなくなり、確定判決の証拠構造が破綻した」と主張した。しかし、福岡地裁の鈴嶋普一裁判長は「女性の調書が作成されたのは事件発生から10日後。捜査機関が無理に女性の記憶に反する調書を作成する動機や必然性が見いだせない。女性の証言は変遷しており、記憶が不確かなものである可能性が高く、無罪を言い渡すべき明らかな証拠とは認められない」と判示した。
大急ぎの死刑執行
福岡地裁の前には支援者ら数十人が集まっていた。「不当判決」と書かれた紙が掲げられると、「裁判所は国民の声を聞け」などと、怒りの声が上がった。支援者の一人は「新たな証拠が出たのであれば再審を開くべきだ」と語った(NHKウェブニュース)。
再審を認めないとの決定後の記者会見で、岩田務弁護士は「無実を明らかにするために協力した2人の重要な証言の価値を認めないもので、強く抗議する」と述べたうえで、「理不尽な決定がなされた背景として、再審開始することが死刑制度を揺るがしかねないとの思惑があると推測せざるを得ない」と、この決定の特異性に言及した(6月6日、毎日新聞)。
私は岩田弁護士の言葉の中に、飯塚事件の本質が表れていると思った。過去、死刑囚再審で無罪となった人たちのほとんどは、捜査段階で自白している。いま再審中の袴田事件の袴田巌さんも、一度だけだが「わたしがやった」と自白、以降、自白を翻し、無実を訴えつづけてきた。こうしたなか、久間さんは当初から徹頭徹尾、否認したのである。
「証拠の王」である自白がないため、捜査当局がしがみついたのがDNA鑑定であった。足利事件では、この鑑定が有罪の決めてとなったことから「科学捜査の勝利」ともてはやされた。だが、MCT118鑑定は初期段階のDNA鑑定であったため、精度は低かった。足利事件では再鑑定の結果、DNAが一致しないことが判明、再審で被告は無罪になった。飯塚事件でも再鑑定すればDNA不一致という結果になる可能性が高い。にもかかわらず(だから、というべきであろうか)捜査当局は鑑定の対象となる資料を全て消費したと主張、再鑑定はされなかった。
弁護側が再審請求の準備をはじめた矢先に大急ぎで死刑執行したこと、DNA再鑑定が出来ないこと(資料を隠しているかどうか不明だが)、再審請求審では原審での薄弱な証拠と合わせて吟味せず、新証言に絞って判断したこと。こうした点を総合すると、岩田弁護士が語ったように、死刑執行した以上、無罪にはできないという国家の威信が背後にあったことは明らかである。この事件は「悪魔のごとき残虐な殺人犯は死刑に」という世論、その世論に応じる形での死刑判決、再審請求前の死刑執行、執行した以上原判決維持――という「死刑制度護持」体質の典型なのである。
さじ加減で死刑と無期
狭山事件は浦和地裁で死刑を言い渡されたが、東京高裁は無期懲役に下げ、これが確定、犯人とされた石川一雄さんは仮釈放された。もし死刑が確定していれば、80代半ばとなった今なお無実を訴え続ける石川さんの姿はなかっただろう。東京高裁の裁判長がなぜ無期懲役にしたのかはさだかでない。ただいえるのは、死刑と無期とは天と地の差があるということである。
ここまで書いて、「山中湖畔連続殺人事件」を思いだした。1984年10月、山中湖畔の別荘を舞台にS、I、Bの3人の男が企てた2件の強盗殺人、死体遺棄事件だ。Sが元警視庁の警部であったことから、連日のように新聞の社会面をにぎわせていた。
事件は東京都内の宝石ブローカーを別荘に誘い込み、現金720万円のほか貴金属など総額4000万円を強奪して殺害、死体を別荘の床下に埋めた。もう一件は、埼玉県の女性金融業者を車で別荘に連れ込み、首を絞めて殺害。金融業者が持参した2000万円を奪い、死体を別荘の床下に遺棄した。東京地裁は「各被告人は相互に関連し、凶悪にして残忍極まりない所業をした」と判断、SとIを死刑、Bを無期懲役とした。
判決では、Sは1億5000万円の借金を抱えていたために犯行に及んだとし、Iは「元警部と一緒だから絶対に捕まらない」とのBの言葉を信じて犯行に加担、BはSを食い物にしていたと認定。元警部という社会的責任があったSの刑事責任を重くみるのはわかるが、Iも同じ責任とする一方で、Bだけを無期懲役にしたのはなぜだろう。この事件を詳細に調査し『死刑と無期の間――山中湖畔連続殺人事件』(三一書房)を著わした佐藤友之さんは「(犯行は)すべてBの指図通り進行した」という。であるならば無期懲役のBが事件の中心人物だったことになる。
なんとも不可解であるが、裁判官の自由心証の建前のもと、判事のさじ加減一つで死刑と無期懲役の間に線引きが行われたことはまぎれもない。この事件の場合、逆の量刑が言い渡されてもおかしくなかった。裁判官にとってはさじ加減の差であっても、被告にとっては生きるか死ぬかの差なのである。
飯塚事件に話を戻そう。山中湖畔の事件の被告とちがって、何度も繰り返すが久間さんは捜査段階だけでなく、法廷でも断固として犯行を否認していた。裁判官が「被告の主張はあるいは当たっているのかもしれない」との思いをもって証拠調べをすれば、判断の誤りは防げたかもしれない。そもそも、人間は判断を誤るものなのである。取り返しがつかない死刑をさじ加減一つで言い渡すべきではないのだ。
死刑は憲法9条違反
国際人権団体「アヌネスティ・インターナショナル」によると、2021年現在、死刑廃止国は108カ国。10年以上死刑執行がないなど、事実上廃止している国も含めると144カ国にのぼる。死刑存続・執行国は日本、中国、北朝鮮、イランなど55カ国。先進38カ国が加盟するOECDの中では日本とアメリカだけである。そのアメリカでも州レベルでは50州のうち23州が死刑を廃止しており、13州が過去10年間、死刑を執行していない。
日本では1994年、超党派の「死刑廃止を推進する議員連盟」が発足、執行停止と事実上の終身刑の創設を柱とする法案作りで合意したが、提出には至らなかった。2008年、終身刑創設を目指す「量刑制度を考える超党派の会」ができたが、休眠状態になっている。国会で死刑制度廃止に向かわない背景に、2019年に内閣府が行った世論調査で、「死刑もやむを得ない」80・8%、「廃止すべきだ」9%と、国民の8割が死刑制度を支持していることがある。
弁護士の杉浦正健氏は法務大臣時代、死刑執行命令書にサインしなかった。2005年、大臣就任会見でサインしないことについて「心の問題、宗教観、哲学の問題」と語った。2009年、政界を引退して弁護士に戻り、日弁連の「死刑廃止及び関連する刑罰制度改革実現本部」の顧問をつとめた。杉浦氏は死刑について「国家が人命を奪うということ。本来は人権を擁護するのが国家。死刑にすべき人たちを教育によって社会に復帰させるのが国だ」とネット上で持論を述べている。憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定している。杉浦氏はこの人権保障規定に基づき、死刑制度を否定するのだ。
私も人権保障の規定にかんがみて、死刑は憲法違反であると考える一人だ。本稿を書くにさいし、参考とするため『死刑廃止を考える』(岩波ブックレット)を開いてみた。菊田幸一・明治大名誉教授(刑法学)の死刑廃止論に目から鱗が落ちるおもいをした。菊田氏は「憲法に内在する最大の理念は生命権の不可侵。死刑は生命権を侵害しているので憲法違反」と述べたうえで、憲法9条の「戦争放棄」に論を進め、「戦争も死刑も国家よる殺人。憲法が死刑ついて明確に廃止宣言していないとすれば、明らかに矛盾している」と指摘する。
菊田氏の主張は、戦争放棄を規定している以上、死刑廃止を明文化していないとしても、憲法は死刑を許していない、ということであろう。私は、憲法9条から死刑問題を考えたことはなかった。なるほど、死刑は国家が一人の人間の命に侵略戦争を行うこと、といえるだろう。
飯塚事件は冤罪を疑われる事件である。にもかかわらず死刑が宣告され、かつ執行された。国家が久間さんに侵略戦争を行い、そして殺害した。久間さんに自衛の機会すら与えなかったのである。許すべからざる国家犯罪というほかない。