連載コラム・日本の島できごと事典 その140《王直》渡辺幸重

平戸市の王直像(「日本掃苔録」サイトより)

【LapizOnline】王直(おうちょく:?―1559)は中国・明代の海商で後期倭寇の頭目です。民間の貿易を許さない明を逃れて日本の五島列島や平戸島(いずれも長崎県)を本拠地として中国人、ポルトガル人、南洋人らと密貿易を行いました。自らを徽王(きおう)や五峰大船主と称し、武装船団を率いて強大な勢力を誇りました。日本国内の有力者と海外勢力を結ぶ役割もしており、日本史を物語る上で重要な人物です。日本への鉄砲伝来にも関係しているとみられています。最後は国禁を侵したとして明朝に捕らえられ処刑されました。
福江島の唐人町には王直が航海の無事を願った廟堂跡地とされる明人堂や明の方式で掘った六角井戸などが、中通島には王直ゆかりの石塁・空堀跡が、平戸島には王直屋敷・天門寺跡や「王直の道」と名づけられた小道などがあります。

王直は1540(天文9)年、交易を求めて五島列島の福江島に来航しました。五島の領主・宇久盛定と黙契を結んで盛定に与えられた現在の福江地区の唐人町に居留地を構え、大陸との密貿易を行ったのです。財政に窮していた盛定は喜んで通商を許したということです。さらに1542(同11)年、王直は平戸の領主・松浦(まつら)隆信(道可)に招かれて本拠地を平戸に移しました。隆信は自らの居城・白狐山城を王直に与えるほどの歓迎ぶりを示しました。西洋との交易・キリスト教伝来の出発点となった1550(同19)年のポルトガル船の平戸来航は王直の仲介によるものと考えられています。

王直は鉄砲の日本伝来にも深く関わっています。一般に1543(同12)年に種子島に中国船が漂着し、乗っていたポルトガル人から鉄砲や火薬の製法などが伝わったとされています。この中国船は王直所有だったという説や王直が通訳として同行していたという説があります。また、日本への鉄砲伝来には種子島説以外にも異説があるようで、種子島より早く王直の手によって鉄砲が平戸に伝わり、戦闘に使われていたのではないか、という人もいます。

ちなみに、倭寇は「日本の海賊」という意味ですが、倭寇の時代は14世紀前後の前期倭寇と16世紀の後期倭寇に大きく分けられ、王直が活躍した後期倭寇の構成員は浙江省や福建省出身の中国人が多かったといわれています。