大分市の西北2kmほどの別府湾内に400年ほど前まで瓜生島(うりゅうじま)という島があったという言い伝えがあります。瓜生島は東西3.5km、南北2km以上という大きさで、12の村があり、沖の浜と呼ばれる港町には家千軒が建ち、約千人が住んでいました。室町時代頃から豊後国最大の貿易港だったともいわれます。
ある記録によると、この島が別府湾で起きた大地震と大津波のために海に沈み、忽然と消えてしまったのは慶長元年閏7月12日(1596年9月4日)のことです。この地震は別府湾に発生した「豊後地震」(推定マグニチュードM6.9)だと思われます(四国高知沖の海底を震源とする「伏見大地震」だという記述もあります)。7月3日から大小の地震が続き、12日には九州島の高崎山や鶴見山、霊山などが崩れるほどの大きな揺れで川は溢れ、大津波も起きました。そして瓜生島は住民もろとも完全に海没したということです。
以上の内容は主に『豊府聞書(ほうふもんじょ)』という文書の内容によりますが、この史料は地震発生の百年後に書かれたもので実際に見聞きした人の記述ではないため瓜生島の存在や海没が事実かどうか疑われてきました。一方、『理科年表』には該当する地震が「1596年9月1日(慶長元年閏7月9日)に発生」とされており、『津山氏世譜』『柴山勘兵衛記』『ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの報告』などの新史料発見によって確実性が増してきました。また、地元有志による瓜生島調査会は海底調査を行って地質学的な裏付けデータを収集しています。
伝説によると、島の神社にある恵比須像(狛犬像または神将像、神像とも)の顔が赤く染まると天変地異が起こるという言い伝えがありました。あるとき、像の顔が赤くなり、地震と大津波で島と住民が海に沈んでしまったということです。島の若者や子どもがいたずらをして像を赤く塗ったという話もあり、言い伝えを信じた者は船で脱出し、信じないで島に留まった者は津波に流されて死んだともいわれます。どんな状況であれ危険を察知したら対応するようにという警告を伝えているのかもしれません。
羽鳥徳太郎(元地震研究所所属)は論文「別府湾沿岸における慶長元年(1596年)豊後地震の津波調査」(1985年)で、「(瓜生島は)地震で一瞬のうちに海没したのではない」と言い、地震発生時は「島は80%陥没(今は存在せず)」としています。隣の久光島は慶長3年(1598年)7月29日の大地震で沈んだという説もあるので、瓜生島も何回かの地震によって沈んだのかもしれません。この地域は中央構造線の延長にあたる可能性もあり、ここにどのような島の生活があり、どのようにして島が消えたのか、地質学的な調査も含め興味は尽きません。
図:瓜生島の想像図(『海にしずんだ島-幻の瓜生島伝説-』より)