現代時評《先住民の尊厳と慰霊》片山通夫

オタスの杜

時折思い出したようにニュースになるのが、我が国の先住民であるアイヌ民族の遺骨の「返還」というニュースだ。まず知っておきたいのが江戸幕府と松前藩が蝦夷(現北海道)という地にすでに住んでいて生活を確立していた先住民であるアイヌの土地を収奪し狩猟を制限しだした。ただ文字を持たないアイヌはたとえば土地の基本台帳などは持たなかった。おそらく「あの山のふもとまで」とか「この川のほとりの集落(コタン)」などと漠然とした表現で完結していた。ところが蝦夷地の松前藩や江戸幕府、そして明治政府は「記録」とか「土地台帳」とか言いだしたのではないかと思う。文字を持たないアイヌは文字を必要とはしなかったが、日本人にはそれは理解できなかった。

そんな中、明治政府はアイヌ民族をはじめとする北方少数民族を 幌内川と敷香川に分れる三角州の砂丘地に位置し、敷香市街とは敷香川によって隔てられ、島のような地形となっていた「オタスの杜」という所に集めて日本人に同化させる教育が行われた。昭和初期に先住民指定居住地となり、樺太原住民族であるオロッコ(ウィルタ)、ギリヤーク(ニヴフ)、サンダー(ウリチ)、キーリン(エヴェンキ)、ヤクートの5民族が集められた。
目的はなんなのかは漠然としか彼らにはわからなかった。

そのような「虐げられたともいうべき歴史を持つアイヌは過去に墓地を発掘・収集(もしかして盗掘)された。現在大学が保管するアイヌの人々の遺骨及びその副葬品の中には、アイヌの人々の意にかかわらず収集されたものも含まれていると見られていることから、アイヌの精神文化の尊重という観点から、遺族等への返還が可能なものについては、返還するとともに、遺族等への返還の目途が立たないものについては、国が主導して、アイヌの人々の心のよりどころとなる象徴空間に集約し、尊厳ある慰霊が可能となるよう配慮する」と文部科学省のプレスリリースにあった。

しかし現在もなお京都大の樺太アイヌ遺骨は返還されていない。京都大や北海道大などがアイヌ民族の遺骨を墓地から無断発掘し研究対象としていた問題も含まれよう。
一刻も早い解決つまり返還と謝罪が望まれる。所で樺太アイヌという呼び方は他者からの呼ばれ方だという。「アイヌ」の樺太アイヌ語での同義語エンチウは「自称」であるという。日露の領土をめぐる歴史のはざまで、樺太(サハリン)で古くから暮らしてきた樺太アイヌやウイルタ、ニヴフら少数先住民族は、独自の言語や名前、なりわいを奪われ、移住を何度も強いられ、「国境」を越え辛酸をなめてきた。所で現在サハリンには民族としてのアイヌは存在しない。日露間で結ばれた千島・樺太巷間条約に基づいて樺太と千島の両アイヌは3年の経過措置のあと、居住地の国民とされることになった。北海道開拓使長官の黒田清隆は樺太アイヌを北海道に集団移住させることを決めた。当時樺太の先住民族は、アイヌを主体に2372人だったが、そのうち108戸841人の樺太アイヌが樺太の島影が見える宗谷へ移住した。ところが翌1876年(明治9年)、黒田は樺太アイヌを宗谷から対雁(石狩川下流、旧豊平川との合流点付近)に再移住させるよう部下に命じ断行した。このように日本人によって強制移住させられたアイヌは農業をすることになったが、もともと狩猟民族であったアイヌには定着しづらかった。つまり先住民の尊厳と慰霊という観点からも考慮する必要がある。

参考
東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/article/249828
文科省  https://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/ainu/index.htm