現代時評《袴田事件と大江文学》井上脩身

3月14日付新聞の一面に、袴田事件の再審を認める決定が出されたことと、ノーベル賞作家、大江健三郎さんが死去したことを伝える記事が載った。私は袴田事件の現場と大江さんの生家付近をたずねたことがあるだけに、偶然とはいえ不思議な感慨にひたった。私が知る範囲では、大江さんが袴田事件について語ったことはない。だが袴田事件の本質は、捜査機関において大江さんが言う「戦後民主主義」の無理解もしくは否定にあった、と私は考える。

袴田事件の現場を訪ねたのは8年前の夏だ。事件は1966年6月発生、静岡県清水市(現静岡市清水区)のみそ製造会社の専務一家4人が刺殺されて放火された。従業員の袴田巌さんのパジャマに血痕様のシミが付着していたことから、袴田さんがパジャマ姿で犯行に及んだとして逮捕、起訴された。袴田さんはいったん自供したが、1年後の67年8月、みそ工場のタンクから作業ズボンなど血がべっとりと赤くついた5点の衣類が見つかった。そこで検察は袴田さんが作業ズボンなどを着て刺殺したあと、社員寮の自室でパジャマに着替えて放火したと犯罪行為を変更した。
現場はJR(事件当時は国鉄)東海道線の線路を挟む形で専務宅と社員寮がある。検察側の主張通りであるならば、袴田さんは一家4人を刺殺したあと、線路をまたいで自室に戻り、パジャマに着替えた後、再び線路をまたいで専務宅に行って放火したことになる。何とも不可解だ。現場は今、専務宅も袴田さんの宿舎もないが、線路は両側にフェンスが設けられた以外は事件当時とかわらない。線路は約1メートルの盛り土がなされているが、線路を横断することはむずかしくない。ただ、犯行が深夜の午前2時過ぎとはいえ、東海道線の夜行列車や貨物列車の行き来があり、急いで渡る必要があったであろう。不可解を通り越して、あり得ないと私は確信した。
そもそも事件から1年2カ月後に、袴田さんの自供によらずに血染めの衣類が突然見つかったならば、袴田さんではない真犯人が捨てた可能性が高いと考えられるであろう。5点の衣類は袴田さんのシロの証拠とみるべきなのだ。しかし静岡地裁は袴田さんがこの衣類を着て犯行に及んだとして死刑を言い渡した。死刑が確定したのは1980年である。
シロの証拠をクロの証拠とされると再審は困難を極める。シロであることを新たな証拠で証明しなければならないためだ。弁護側はこのたびの再審請求差し戻し審で、みそ漬け実験などを基に「1年以上みそ漬けされた血痕は黒い褐色に変わり、赤みは残らない」と主張。東京高裁は弁護側の主張を認め、再審開始を認める決定を出した。高裁は「5点の衣類が犯行時の着衣でない疑いが生じた」としたうえで「事件から相当期間を経過した後に事実上捜査機関がみそタンク内に隠した可能性が極めて高い」として、捜査機関の証拠の捏造とまで言い及んだ。
高裁決定によれば、5点の衣類は、袴田さんをクロにするための捜査機関によるでっち上げ証拠なのである。何と、捜査機関こそ、袴田さんを死刑にする″真犯人″というわけだ。無実の人を犯人にするために証拠を偽造するという、捜査機関の驚くべき犯罪を明るみにしたという点で、高裁決定はわが国の司法史上重要な意義をもつ。

話を大江さんに移そう。私は学生時代、大江さんの小説に傾倒、「戦後と大江とぼくら」というタイトルで文集をつくり、近代文学専攻の助教授を招いてシンポジウムを開いたこともある。大江さんの芥川賞作品『飼育』は生まれ育った古里が舞台と言われており、十数年前、松山に出張したさい、愛媛県内子町大瀬の大江さんの生家辺りを訪ねた。谷あいに古い民家が軒を並べていて、いかにものどかな山里であった。『飼育』は墜落した米軍機から脱出した黒人米兵を村人が地下の倉庫で飼うという物語だ。私は、黒人兵を初めて目にしたときの村人の驚いた表情を思い浮かべながら、周辺を歩いてまわった。
米軍といえば、大江さんの話題作のひとつに『沖縄ノート』がある。沖縄のさまざまな問題点をえぐりだしたこのレポートが冤罪にまきこまれた。しかも「加害者」としてだ。
大江さんは『沖縄ノート』のなかで沖縄戦の悲惨な実態のひとつとして、慶良間諸島であった集団自決をとりあげ、「生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の<部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。従って住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するために、潔く自決せよ>という命令に発するとされている」と記した。この記述に対し、元沖縄戦指揮官の遺族が「名誉を棄損した」として2005年、大阪地裁に提訴した。遺族はそのような命令は発していないと主張、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」が結成された。
大阪地裁は自決命令について「合理的資料もしくは根拠がある」として、大江さん側の主張を認め、請求を棄却。高裁、最高裁も地裁判決を支持した。裁判で、集団自決命令が発せられた可能性が高いと認定されたのだ。
軍隊は本来、国民を守るためのものであるはずである。しかし「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が住民の集団自決を生み出したといわれていることからもわかるように、軍は住民の命を守る存在では決してなかった。軍が守るのは国民ではなく軍組織、さらにいうならば上級将校らによる軍の官僚組織なのである。

戦後の日本は「軍のメンツ主義」による軍部の暴走を反省してスタートしたはずであった。大江さんがいう「戦後民主主義」とは、憲法に定める基本的人権の保障にほかならないと私は理解している。その最たるものである人命尊重は憲法の根本理念といえるだろう。その観点から袴田事件をみれば、でっち上げ証拠によって袴田さんを犯人に仕立て上げた警察・検察には、人権尊重の欠片もなかったのだ。袴田さんのパジャマについていたわずかな血痕様のシミでは証拠能力がないため、証拠を偽造したのであろう。それは、いったん袴田さんを起訴した以上、何が何でも犯人にしなければならないという検察のメンツ保持のためにほかならない。彼らにとって大事なのは検察という官僚組織を守ることなのである。
さいわい検察側は特別抗告を断念、ようやく再審が開かれることになった。しかし、冤罪事件はあとを絶たない。「新しい戦前」とまでいわれている昨今である。大江さんの死は「戦後民主主義」の死なのであろうか。