「片山作品に見る冷戦下のフォトジャーナリズム」001
片山通夫さんは私と同い年の1944年生まれである。高校に入学したのが1960年、いわゆる安保の年だ。安保条約はつまるところ東西冷戦のなか、わが国がアメリカの核の傘に入ることであったといえるだろう。核戦争の恐れは1962年のキューバ危機により具体的恐怖となり、人類は核の均衡という緊張状態のなかで息をつめて生きていくことになる。こうした時代背景をうけて、若き日の片山さんはカメラを手にキューバにとび、米ソ対立の最前線にあるカリブの国の人たちの実相に迫った。そこで磨いたカメラアイはやがて日本の敗戦でサハリンに取り残された朝鮮人に向ける。深いしわの奥ににじむ誇りと尊厳。片山さんはレンズを通して物言わぬ辺境の地の人たちに寄り添う。そこに私はフォトジャーナリストとしての鋭い時代感覚と温もりある人間性をみる。
カストロとキューバ危機
私が入った高校は片山さんの学校とは淀川をはさんで反対の北側に位置していた。1年生のときの担任のF先生は組合活動に熱心な社会科教師で、日米安保条約について、アメリカが日本を思いどおりにする条約で、戦争になるとソ連の標的になるという意味のことを、授業で話していた。3年生のクラスも担任はF先生だった。2学期のある日、先生は教室に入るなり、「えらいことになった。第3次世界大戦や」と叫ぶように言った。正確には覚えていないが、F先生は「キューバをめぐってアメリカとソ連がぶつかった」といい、「核戦争になるやもしれん」と声を震わせた。
まさか! 私は先生の話を真に受けなかった。私は中学3年生のとき『渚にて』という映画を見ていた。第3次世界大戦が勃発し、核兵器の使用によって北半球が放射能染され、南半球にも汚染がしのびよるという内容だ。核は人類を破滅させることは常識であり、アメリカのケネディー大統領もソ連のフルシチョフ書記長もそんなバカなことをするはずがない、と思ったのだ。
実際、第3次世界大戦にはならず、核兵器が使われることもなかった。大学受験を控え、「キューバ危機」は私の脳裏から消えた。
1964年5月、ソ連のミコヤン副首相が来日し池田勇人首相らと会談。私がいた大学で講演した。その数日後、ミコヤン副首相は1960年にキューバを訪問、ソ連とキューバの経済関係を強めたことがキューバ危機の伏線になった、と友人に聞かされた。その友人は大学の南北問題研究会というサークルに属していて、南(開発途上国)に対する北(欧米、ソ連)の支配のありように関心をもっていた。
数年後、数人でF先生を自宅にたずね、高校時代の思い出を語り合っているうち、話題がキューバ危機に及んだ。誰かが「ケネディー暗殺の真犯人は(キューバ危機の際の)ケネディーに不満を持っていた者にちがいない」と語ったとき、先生はウーンと腕組みをしたまま黙っていた。高校時代、先生は北朝鮮の金日成が唱えた主体思想について「すばらしい」と絶賛したことからもうかがえるように、社会主義や共産主義に強い共感をいだいていた。そのF先生は、キューバがソ連側になったことはよかったかどうか迷っているのでは、と私は思った。
十数年前、革命家チェ・ゲバラの半生を描いた映画『チェ』(アメリカ・フランス・スペイン合作、2008年公開)を大阪の映画館で見た。1部と2部で構成されていて、1部はカストロとともにキューバ革命を成し遂げる苦難の道をえがいている。山岳で活動するカストロが率いるゲリラ部隊の兵士のにっと笑う顔が印象的だった。映画を見終えたとき、ふと気づいた。私とは何の関係もないキューバであるが、10代半ばから20代の半ばころまでの若いころ、時折話題にのぼる国であった、と。東西の綱引きの支点のような国といえばいいのであろうか。まことに現代史の実験場のような国ではないか。
こんなふうに思いを巡らしているころ、私は片山さんと出会った。2011年の11月だった。その年の3月11日に起きた東日本大震災を機に片山さんは季刊電子雑誌「ラピス」を始めていて、私に加わるよう勧めたのであった。以来、私は3カ月ごとに何本かの原稿を出稿。片山さんがその編集をするという関係である。
片山さんがカメラマンとして、私がライターとしていっしょに取材に出かけたある時、片山さんは、大学を出たあと、キューバの通信社に入ったと話した。新聞社に入った私が地方の支局にいたころ、彼はキューバの″今″をファインダーをとおして見つめていたというのであった。
井上脩身 1970年、毎日新聞社に入社、鳥取支局などを経て大阪社会部。教育問題担当として、『教育を追う』シリーズの取材班に加わる。退職後、2011年12月より季刊電子雑誌「ラピス」編集長、2015年10月より近鉄文化サロン文章教室講師。『見た阿波選挙』(共著)、『酔花』(自費出版)