ロシアがウクライナに侵略戦争を始めて4カ月がたった。ロシアは現在東部ドンバス地方に戦力を集中させている。ドンバスを完全制圧して属国にするのがプーチン大統領の狙いであることは、「ネオナチストから守る」とのプーチン氏の発言から見て明らかである。この目的達成ために周到に用意されたプロパガンダの結果であることが、最近上映された映画『ドンバス』を見てわかった。ドンバス地方には「ウクライナ兵はファシスト」と信じて疑わない人が少なくないのである。ウクライナ軍が、NATO諸国からの兵器の支援を得て東部戦線のロシア軍を押し返すことができても、住民たちに植え込まれた反ネオナチス感情を払拭するのは難しい。ウクライナ側にとって、この戦争はいま極めて厳しい局面にさしかかっている。
ドンパス地方はウクライナ東部のドネツク州、ルガンスク州をさし、マリウポリ、セベロドネツクなどの都市がある。
映画『ドンバス』はセルゲイ・ロズニツァ監督が、2014年から2015年にかけてドンバス地方で起きた実話をもとに製作、2018年に公開された。コンテナ内で俳優にアザをこくさせてフェイクニュースをつくる場面にはじまり、親露派から住民が逃げ込んだ電気も水もない真っ暗な地下シェルターなど、息詰まるシーンの連続だ。
なかでも目を覆いたくなったのは、親露派兵士がウクライナ兵の捕虜を電信柱にしばりつけて見せしめにする場面だ。通りかかった住民が「ファシスト!」と叫んで次々に殴る蹴るの暴行をはたらく。棒で殴る若者、「息子を殺された」と怒声を上げる年老いた女性。ドンバスの普通の市民の憎しみをもろに受けた捕虜は、理不尽にファシストとなじられながら、ただじっと耐えている。
映画だから、全くの事実とは言えないだろう。映像の効果を狙うための多少の誇張があるかもしれない。だが、間違いなくよみとれるのは、ドンバスの市民のなかに、ウクライナ兵がファシストであると本気で信じている人が少なくないという事実である。ドンバス地方をはじめウクライナ東部はロシアと国境を接し、ウクライナが1991年に独立した後もロシアに親近感をおぼえる人は少なくなかった。そのことと、ウクライナ兵をファシストと思うことは次元が異なる。「ウクライナ兵はファシスト」という意図的なプロパガンダがなされなければ、こうした市民感情は生まれない。
東部で戦うウクライナ軍の主力はアゾフ連隊である。ドンバス地方が親ロシア派に占領される過程で生まれた民兵組織がルーツとされた。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報告書によると、2014年5月、アゾフの隊員が女性を拉致し、4~5時間にわたって拷問。ガソリンスタンドで住民とアゾフの隊員が口論になり住民を射殺する事件などが起きている。こうしたことから住民たちの間で、同連隊に対し、「極右的でネオナチ」と反発感情が生まれたといわれる。
アゾフ連隊は2014年に正式に国家組織に組み入れられてからは当初のメンバーが離れ、極右的傾向は薄れたとされるが、相前後してロシアはクリミアを併合。このころから「ネオナチスキャンペーン」が陰に陽に行われたであろうことは想像に難くない。ロシアが背後で動いていた証拠は見当たらないが、プーチン大統領が開戦のさいに、ドンバス地方のドネツク、ルガンスク両州(同大統領はいずれも人民共和国として承認)で、ネオナチストから守ることを口実にしていることから、ネオナチスプロパガンダに何らかのかかわりがあったとみるべきだろう。私はクリミア併合時点からプーチン大統領は次のターゲットをドンバスにしぼり、併合するか少なくとも属国化するため、アゾフ連隊のネオナチ体質を逆手にとる作戦に出たのでは、と疑う。
ウクライナにとってドンバスで戦うためにはアゾフ連隊の存在は重要であろう。と同時に、住民掌握のうえではウイークポイントにもなっている。プーチン大統領にここを巧妙に突かれたのである。
ところで、プーチン大統領はなぜドンバスをはじめとする東部に戦線をしぼったのであろか。
ウクライナ戦争の原因について、ウクライナがNATOに加盟しようとしたため、NATOの東方拡大を阻止するのを目的にプーチン大統領が軍事行動に出た、との見方がある。事実、ロシア軍は当初首都キーウ(キエフ)を砲撃するなど、ウクライナ全土への全面展開の様相を見せた。当然NATO諸国の防衛意識が強くはたらく。ロシア軍が一転してドンバスなどへの局地戦に切り替えると、NATO側の動きが鈍くなる、とプーチン氏は読んだのであろう。
ウクライナのゼレンスキー大統領は6月2日、「ドンバス地方はほぼ完全に破壊された」と血相を変えた。8日にはルガンスク州の要衝、セベロドネツクで市街戦になり、ゼレンスキー氏は「ドンバスの運命が決まる」と悲鳴を上げた。この一方で親ロシア派による「ドネツク人民共和国」の裁判所は9日、ウクライナ側の雇い兵の英国人兵士ら3人に死刑を言い渡した。プーチン大統領の計算通りにドンバスのロシア属国化が進みつつあるように思われる。
ウクライナ戦争はロシアとNATOの対立という形而上戦と、ドンバスの攻防という形而下戦の二重構造である。しかし、プーチン大統領の頭のなかでこの上下関係が結びついており、ドンバスで勝つことがNATOに勝つことなのであろう。「ネオナチスキャンペーン」はこの上下構造の接着剤として編み出した作戦かもしれない。
戦争が長期化するなか、NATO側から停戦を求める動きが出てくることが予想される。「ドンバスくらいロシアに取られてもかまわない」と譲歩すれば、NATO側が手痛い目にあうことは必至である。プーチン大統領の野望をくじくには、ドンバス戦線からロシア軍を撤退に追い込むことが絶対条件であろう。ただし、この場合でも住民の「反ネオナチス感情」という課題が残ることはすでに述べた通りである。