現代時評plus《五木の子守歌》片山通夫

五木村の橋の欄干のレリーフ

昔から気になっていた歌がある。五木の子守歌。筆者は熊本県や五木村に縁があるわけでもない。それでもなぜか気になっていた。今思うと高校の修学旅行で九州へ行ったときに聞いた歌だったのかもしれないが定かではない。

おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる
(伝承者 吉松 保)

熊本に熊本国府高校(熊本市)がある。その学校のパソコン同好会 が五木の子守歌に関して素晴らしい仕事をしているので一部を紹介したい。

五木の子守唄と子守唄の里


昔のわらぶきの家並み 球磨郡五木村の「五木の子守唄」は天草郡天草町福連木地区に伝わる「福連木の子守唄」が、天草から山仕事で五木に入ってきた人により伝えられたという説(福連木出身の子守り娘たちが人吉に奉公にきて伝えたとも)もあります。確かに、歌詞は似ているところが多いのですが、メロディーはだいぶ異なるようですし、定かではありません。

 五木の子守唄は山村の厳しい暮らしの中から生まれ、長く唄いつがれてきたものであることだけは確かです。五木村では、戦後の農地改革まで、わずか33戸の「だんな衆」という地主以外は、ほとんどが「だんな衆」から山や土地を借り受け、細々と焼畑や林業を営んで暮らす「名子(なご)」と呼ばれる小作人たちでした。

 名子たちの生活は厳しく、子供たちは7、8歳になると、食い扶ち減らしのために八代や人吉方面に奉公に出されたそうです。それも奉公とは名ばかりで、「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という約束だったとも聞いております。そうしたつらい奉公をまぎらわすために唄われたこの子守り唄は、他の大部分の子守唄(「眠らせ唄」や「遊ばせ唄)」と違って、「赤ん坊を眠らすための唄ではなく、子守り奉公をしている娘たち自身の嘆きの唄」だったと考えられます。歌詞を読めば、聞かせる唄ではなく、ひとりでさびしく口ずさむ唄だということは明らかです。子守り生活の悲しくつらいことばの歌詞が次々と続きます。(同校hパソコン同好会ホームページから)

それゆえに歌詞の意味は悲しい。
幼い子供の内から子守に出された子守たちが、背中のおわされた赤ん坊をあやし乍ら自然発生的にできた歌詞である。歌詞の意味から彼女たちの様子が見て取れる。

おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(し)
よか衆ゃよかおび よか着物(きもん)
*かんじん=乞食

おどんが打死だときゃ 誰が泣(に)ゃてくりゅか
裏の松山ゃ せみが鳴く

せみじゃござらぬ 妹(いもと)でござる
妹泣くなよ 気にかかる

おどんが死んだなら 道端(みちばち)ゃいけろ
ひとの通るごち 花あげる

辛(つら)いもんだな 他人の飯(めし)は
煮(に)えちゃおれども のどにたつ(伝承者 吉松 保)