私が入っている川柳同好クラブで最近、後任代表をめぐる混乱から、クラブ存続の是非にまで話が発展した。入会してまだ日が浅い会員たちが、十年一日のクラブ運営に疑問をいだきだしていたところ、コロナによる活動の制約と相まって、一気に不満が噴出したのだ。コロナ禍のなか、「先輩の決めたことに黙って従え」式のやり方に厳しい目が向けられるようになったのでは、と考えていたとき、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の女性蔑視発言がとび出した。森氏は翌日、記者会見をして謝罪した。従来ならこれで収まっただろう。ところがSNSを通じて批判が殺到、森氏は辞任に追い込まれた。私はオリンピックについても、商業主義にどっぷりはまった開催に対する人々の意識が変わりだした証左だと思った。組織委は17日、橋本聖子・五輪担当相を後任会長に選んだ。橋本氏は森氏の秘蔵っ子であり、人選の背後に政府の意向があったことはまぎれもない。政府もJOCも国民意識の変化に全く気付いていないようである。
報道によると、森氏は今月3日に開かれた日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」などと述べたうえ、組織委の女性について「みんなわきまえておられる」と語った。
この発言が批判の矢面となったため4日、森氏は記者会見で「五輪・パラリンピックの精神に反する不適切な発言だった」と陳謝したが、会長職辞任は否定。JOCは森氏の発言撤回を受け、「この問題は終った」と事態収拾を図り、菅義偉首相も森氏の進退については「指示できない」と述べた。
しかし批判の嵐はおさまらず、森氏は会長を辞任。組織委内に候補者選考の検討委員会を設けて人選することとなった。検討委は会長の資質として①五輪・パラリンピックに深い造詣②五輪憲章の理念の実現③国際的な活動経験④東京大会の準備状況の理解⑤関係者の調整力――の5点を挙げた。
この5点をみて、私は五輪担当相である橋本氏が浮かんだ。はたして検討委は会長候補を橋本氏に一本化。これを受けて組織委理事会は橋本氏に決した。検討委はこの5点を吟味した結果、橋本氏にしたのではなく、橋本氏にするために五つの資質を掲げたとしか私には思えない。橋本氏は1995年、参院選比例区に自民党から立候補し、初当選したが、このときの幹事長は森氏である。橋本氏は森氏をあたかも父のように尊敬している。森氏から見れば、橋本氏はだれよりも「わきまえている」女性なのである。
繰り返すが、森氏の女性蔑視発言は、①女性が大勢いると会議に時間がかかる②競技団体出身で国際的大舞台を踏んでいる女性はわきまえている――の2点がワンセットである。「時間がかかる」ことだけが女性蔑視なのではない。「わきまえている」ことはその裏返しなのだ。にもかかわらず、森氏がお気に入りの橋本氏を選ぶとは、あきれた出来レースである。茶番劇というほかない。
新聞、テレビは後任人事だけに焦点を絞って報道していたが、もっと重要なのはオリンピックに対する人々の意識の変化をどうとらえるかである。
「復興五輪」を旗印に、安倍一強体制のなか、強引に東京オリンピック事業が展開されてきた。安倍前首相(66)をはじめ、森前会長(83)、菅首相(72)、小池百合子・東京都知事(68)ら五輪推進者の多くは1964年の東京五輪のとき10代から20代だった。橋本氏は56歳と若いが、64年オリンピック開会式の5日前に誕生、聖火から聖子と名づけられたというオリンピックの申し子だ。政府、自民党にとって、今度のオリンピックは、「夢よもう一度」なのである。
64年大会は、戦後の荒廃から立ち直った日本が、国際社会で認められたいとの熱い思いをこめた晴れ舞台であった。オリンピックを機に東海道新幹線が開通、高速道路の整備が始まるなど高度経済成長路線を突っ走り、経済大国になった。その一方で、女性の再婚に際しての民法の女性差別規定が温存されるなど、戦前の家父長的家族観は根深く残ったままだった。今なお女性はお茶くみが当たり前というトップ企業が少なからずある。「夢よもう一度」とは、男性社会のなかでの経済至上主義再確認にほかならない。
しかし、新型コロナウイルスはアメリカをはじめ先進諸国に蔓延し、経済大国のもろさを全世界に示した。我が国でも最も深刻な事態に陥っているのは東京だ。その現状を見れば、経済一辺倒政治に国民が冷ややかになるのは当然であろう。
経済至上主義の際たるものがオリンピックである。東京都はオリンピックの経済効果を2兆5000億円、付随効果を27兆7000億円と見込んでいる。1年延期による損失も大きいが、それでも政財界にとってはノドから手がでる大金であることに変わりない。国民の多くは五輪開催に反対しているが、政府は観客を入れた開催によって景気を上昇させ、衆院選に打ってでる算段だ。だが、「景気がよくなれば国民は政府を支持する」というたぐいの政界の常識に、国民は懐疑の念をいだきだしている。「五輪に国民はうかれて、政府の思うがまま」という国民をなめた政治がいつまでも続くはずがない。
市民感情の変化は五輪に対してだけにとどまるまい。私の川柳クラブの例にも見られるように、極めて広範囲にわたっている。コロナ収束後、人々の価値観がどう変わるのかはまだ見通せない。だが、コロナ禍真っただ中のいま、ポストコロナ時代の国や社会の在り方、ひいては自分の生き方について、多くの人たちが模索をしはじめていることだけは確かである。その兆しが見えない政府は、いずれ国民から見捨てられるであろう。