現代時評《中村哲医師とハンセン病》井上脩身

NGO「ペシャワール会」の医師、中村哲さんが12月4日、アフガニスタン東部で銃撃を受けて亡くなった。この悲しい報道で、中村さんが1992年、毎日国際交流賞を受賞したさいの記念講演が私の脳裏によみがえった。当時パキスタンでハンセン病の治療に当たっていた中村さんが「ハンセン病への偏見は近代化に応じて強くなる」と述べたことが、強く印象として残ったのだった。中村さんが非業の死を遂げる1カ月近く前の11月15日、ハンセン病家族補償法が参議院本会議で可決した。我が国が近代国家になって以降、ハンセン病の患者とその家族が偏見、差別にさらされてきた歴史を重ねると、中村さんの指摘は差別の本質を鋭く射抜いているように思える。中村さんは後に用水路を引くなどの灌漑に全力を傾注。今回の事件にともなって、新聞やテレビではその功績業をたたえる報道が目立った。そのことに異存はないが、ここでは中村さんのハンセン病への取り組みを振り返りたい。中村さんが敢えて苦難の道に分け入った動機が近代への懐疑にあるように思うからである。 いま私の手元に1冊の本がある。『ペシャワールにて――癩そしてアフガン難民』(石風社)。中村さんが医療協力者としてパキスン北西辺境州のペシャワールに派遣された1984年から、湾岸戦争さなかの1991年までのハンセン病への取り組みをレポートした中村さんの著書だ。北西辺境州はパキスタンの一地方だが、アフガニスタンと接しており、元来人々は国境を越えて自由に往来していた。ペシャワール地区は民族的にみて事実上アフガンの一地域である。

中村さんが赴任したペシャワール・ミッション病院では、消毒器具は20年前に据えられたオーブン式のものしかなく、ガーゼは焼け焦げて茶色になったままというありさま。清潔徹底を指示することから中村さんの仕事が始まった。

ハンセン病にかかると合併症として足の裏に穴があく足底穿孔症になることがある。こうした患者のためのサンダル作りという靴屋のまねごとのかたわら、難民キャンプの医療実態の調査なども行った。

こうしたなかで、中村さんは同州のスワウトという地方の人々がハンセン病に寛大で、よほどの変形があっても共同体は受け入れていることを知る。ひどい変形患者のお年寄りも家庭内では尊敬され、離婚されないでいる妻もいるのだ。一方、アフガニスタンのクナール州の上層階級の知識層の間では、ハンセン病は「シャイターン(悪魔)の業による恐るべき病気」とされている。この地域では患者の根絶計画が行われ、親族自ら抹殺して家名を守ろうとしていた。

こうした現実を直視しているうち、「近代化以前の社会では一種の祟りなどと信じられるが、ひどい偏見はむしろ近代化に応じて強くなり、科学的知識の普及につれて差別が無慈悲なものになってゆく」ことに気付く。そして「近代化とは中世の牧歌的な迷信が別のもっともらしい科学的迷信におきかえられてゆく過程にすぎない」と見抜いた。

中村さんの推論は日本の状況を言い当てている。明治維新から21年後の1889年、静岡県御殿場市に私立の療養所が設けられたのを皮切りに1907年、癩予防法に基づいて一般社会から隔離するため公立の療養所が全国に設置された。1931年、改正癩予防法によって「らい撲滅」のため国による強制隔離政策が進められ、入所者に優性手術が行われた。戦後になっても基本方針は変わらず、1948年に成立した優生保護法ではその対象としてハンセン病が明文化された。こうした国の政策の結果、患者だけでなく、その家族も社会から白眼視され、結婚や就職ができなくるなどの差別被害を受けることになった。

2001年、らい予防法違憲訴訟で原告の患者や元患者が勝訴したのを機に国が患者・元患者に謝罪。今回成立した家族賠償法には、家族が受けた差別について「国会および政府」が「深くおわびする」ことが明記された。

中村さんは旱魃で水が枯渇しているアフガンの実態に、「医療よりも水」と井戸を掘りだし、やがて用水路を引くことに専念。2010年には全長25キロの用水路が完成し、約10万人がこの水で生活できるようになった。だがいつの世にも事理をわきまえない跳ね返りがいる。アフガンの人たちのために人生を捧げた中村さんにとって、今回の悲劇には道半ばの思いであろう。

ハンセン病についても、偏見や差別をもつ人をゼロにすることは容易ではない。中村さんなら「科学的迷信が消える社会に」と訴えるにちがいない。どうすればそうした社会になるのであろうか。「科学は進歩する」と信じてやまない現代人に突き付けられた課題である。