連載コラム・日本の島できごと事典 その160《戸数制限》渡辺幸重

相模湾に浮かぶ初島(「*and trip.」サイトより)

島では食料生産や生活インフラに限界があることから島内の戸数を制限してきた島があります。静岡県の熱海港沖、相模湾に浮かぶ初島もその一つで、江戸時代から現在まで耕作地や水源、漁獲を島民で均等に分け合う共同体的生活が営まれるようになり、40戸前後の戸数が維持されてきました。「次男以降は島を出て、跡取りがいない家は婿養子をとる」という不文律が脈々と守られてきたのです。 初島は約2万年前に海底が隆起して現れたといわれる面積約0.5平方キロメートルの小さな島です。7千年ほど前から人が住み、古墳時代の祭祀場跡も発見されています。分家が厳しく制限され、江戸末期の1830(天保元)年の記録に41世帯とあり、1945(昭和20)年にも全41戸による誓約書「島外の資本には土地を売らない」が交わされたとあるので「41戸」が基準になっているようです。私が1974(昭和49)年に初島に取材に訪れたときにもそう聞きました。資料を見ると、1595(文禄4)年の戸数は38、1891(明治24)年は44というデータもあります。「網漁業の経営参加権は41戸41株に固定されたまま」という表現もありました。

根岸正美の「静岡県初島における民宿集落の形成」に取り上げられた統計によると初島の戸数は1351(観応2)年に18だったのが1561(永禄4)年には40となり、1830(天保元)年から1975(昭和50)年までのデータでは41に定着しています。
一方、大村肇は「初島共同社會の再檢討 特に戸數制限の問題を中心として」で初島の「41戸の戸数不変」について検証し、初島の戸数の変化は1807(文化4)年40、1841(天保11)年39、1845(同15)年40、1849(嘉永2)年41と変化したことを上げ、「(41戸の戸数不変は)弘化期(1845~1848年)以後の現象であることはほぼ確かとなつた」としています。

ちなみに、国勢調査では戸数41であっても世帯数は異なり、たとえば1975(昭和50)年の世帯数は61(人口は217人)となっています。これは「戸数」は物理的な家屋の数を表し「世帯数」はその家屋内で共同生活を営む家族集団の数を表すので、1戸の中に複数の世帯が存在するケースがあるからです。初島ではリゾート開発が進み、ホテルや観光施設の従業員、アルバイト、工事関係者、観光客らが多く滞在しています。2020(令和2)年国勢調査では192 世帯268人が住んでいることになっています。戸数制限の形は見えにくくなりましたが、リゾート開発では土地を売らないで開発事業者も出資する地区事業協同組合方式で進めるなど戸数制限の精神は生き続けているようです。

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