「丹波国」
丹波には京の都に出没する鬼が棲むという。都の西には化野があり、その西側の老いの坂峠を越えて亀岡に入るとそこは丹波の国。化野(あだしの、仇野、徒野とも)は、京都の嵯峨野の奥にある小倉山の麓の野。京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にその地名が残っているが、古くは山城国葛野(かどの)郡嵯峨といい、かつては風葬の地、近世は鳥辺山とともに火葬場として知られた。西の「化野」、東の「鳥辺野」、北の「蓮台野」は京の三大葬地として知られたいる。化野の名は「無常の野」と言う意味で、人の世のはかなさの象徴としても用いられた。
繰り返すが、丹波の国大江山には京の都に出没する鬼が棲むという。
話は変わるが、京都を南方向に出た所に恭仁京跡がある。今から約1,300年の昔、740年(天平12年)12月に、聖武天皇は平城京から現在の木津川市へと遷都した。遷都の原因は簡単に説明すると、地震が起き、天然痘の大流行によって政治を担う重要な立場にあった藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで死去するなど、先行きが不透明な時期に入ったためだと思われる。またその後、紫香楽の宮や難波の宮など遷都が続く時代に入ったが、いずれも短期の首都だった。つまり安定しない時代だったのだ。そして桓武天皇の時代793年(延暦12年)から建設された平安京は翌794年(延暦13年)に遷都。長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の洛陽城や長安城を模して793年(延暦12年)から建設された。翌794年(延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。
しかし平安京も平家の台頭や貴族文化の退廃で平安中期から後期にかけては都は荒れてきた。つまり武士の台頭、貴族の退廃が進み、京の都には妖怪変化が跋扈するようになった。この頃大江山を根城とする酒呑童子や茨木童子などの鬼が丹波の国から都へ出没するようになった。時は一条天皇の時代(980年7月15日-1011年7月25日)だった。鬼どもが都に出没したため、天皇は渡辺綱などに勅旨を出してこれを討たせた。(続く)