エッセー《彼岸(ひがん)と此岸(しがん)》片山通夫

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「彼岸だそうで。」

なんだか知らないが三途の川を挟んだ向こう岸が彼岸、こちら側が此岸と言うわけらしい。彼岸には春と秋があり、季節の変わり目ともいわれる。古来、「暑さ寒さも彼岸まで」とも言ったようだ。暑さ寒さの中間点、また昼と夜との時間の長さも同じときを行ったものだったが昨今はそうはならない。
彼岸とかいう考え方は仏教の教えがあって、供養や修行をするにはふさわしい時期という考え方がある。そしてなぜか春のお彼岸には「ぼた餅(牡丹餅}」、秋のお彼岸には「おはぎ(萩)」を、仏さまにお供えして供養する習わしがある。

「三途の川」

三途の川は此岸(この世)と彼岸(あの世)の間に横たわる川を指す。実際に見た人はいないかもしれないが存在はするという。人が亡くなればこの川の渡し賃として六文銭を持たせる。今時は紙で出来た銭だ。もしこの渡し賃を持っていなかったら、川のこちらに十王の配下の懸衣翁(けんえおう)・奪衣婆(だつえば)という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない亡者が来た場合、渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。

「賽の河原」

また三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って亡くなった子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みの塔を完成させると、供養になる。しかし完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。そのような子供を救うのがお地蔵さまだとか。

小話

筆者がある時プールで泳いでいた。確か25メートルプールだった。そしてしばらくしてプールの端に腰かけてなんともなく水面を眺めていたら、ゆっくりだが確実に平泳ぎで泳いできた人が、筆者と同じように腰を掛けた。彼女の息は切れていなかった。彼女が話しかけてきた。
「私は80になって泳ぎを覚えました。そして今年で84です。」
「健康の為なんですね。」とは筆者。
「勿論それもありますが、まだこの世でやりたいことがあります。万一事故ででも死んで三途の川を渡らなくなっても、途中で舟から飛び込んでこっちに泳いで帰るつもりで…。」
見事なご婦人だった。

蛇足:お彼岸にぼたもちを食べる習慣は江戸時代に定着したと言われている。
あずきの赤い色は邪気を払い、災難から身を守ること、さらに、昔は貴重であった砂糖を使うおはぎをお供えすることで、ご先祖様への感謝の気持ちを伝えるといった意味合いも込められている。「半殺し」は、炊き上がったごはん粒をすりこぎで潰して、粒が半分残る状態を指します。「全殺し」は、炊き上がったごはん粒をすりこぎで滑らかに潰して、粒が残らない状態を指す。
小豆の状態に対して「半殺し」「全殺し(皆殺し、本殺し)という言葉を使うことも。春のお彼岸でいただくぼたもちのこしあんは「全殺し」、秋のお彼岸でいただくおはぎの粒あんは「半殺し」と呼ぶ。