
平安時代中期に関東で平将門(たいらのまさかど)の乱が、瀬戸内海で藤原純友の乱が起きました。ほぼ同時期に起きた2つの乱は合わせて「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」とも呼ばれます。当時の朝廷貴族たちを震撼させ、武士の勃興を促した乱ですが、藤原純友は瀬戸内海西部の海賊集団を率いて愛媛県宇和島港の西南西約24kmの宇和海に浮かぶ日振島(ひぶりじま)を拠点にし、朝廷側と戦いました。
純友は伊予国(愛媛県)の国司で、瀬戸内海で活動する海賊を鎮圧する任務に当たっていましたが任期が終わっても京都にもどらず、逆に海賊を配下においてその頭目となりました。936(承平6)年頃には日振島を拠点として1000艘を組織していました。そして939(天慶2)年に日振島で挙兵したとされます。純友軍は淡路(兵庫県)や讃岐(さぬき:香川県)などの国府を襲撃するなど京都に迫るほどの勢いを見せましたが将門の乱を平定した朝廷軍が兵力を西国に集中したため鎮圧されました。
941(天慶4)年に本拠地・日振島を朝廷軍に攻められた純友は西に逃れ、大宰府や柳川(福岡県)を転戦し、伊予に戻って潜伏しているところを宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で病死したともいわれています。また英雄伝説によくあることですが、海賊の大船団を率いて南海の彼方へ消えたという話もあるようです。将門の乱はわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及びました。これは陸上の戦いと海上の闘いの違いも影響しているのかもしれません。
日振島は3つの陸繋砂州で結ばれ、北西から南東にかけて細長く伸びる面積3.7?の島で、宇和海側の海岸は海食崖が発達し、四国に面する側は比較的なだらかになっています。周辺海域は潮の流れが複雑で強い波によって島の周辺には海蝕洞や奇岩が発達しています。純友軍にとって潮流は外部からの攻撃を防ぎ、入り江や湾は自軍の船を隠し、奇襲を行いやすかったとみられます。小さな島だから敵が上陸しても地形を活かした効率的な攻撃ができました。日振島の周辺は海産物が豊富で、食料や水の確保もできたので長期間籠城できる条件も備わっていたということです。
島の中央部東海岸にある明海(あこ)漁港には純友が使用していたと伝わる「みなかわの井戸」が、裏手の城ケ森(じんがもり)には郭・土塁・堀切などの遺構と1939(昭和14)年建立の「藤原純友籠居之趾」碑があります。