今はスカイツリーのお膝元

【LAPIZ ONLINE】1月上旬、わたしは早乙女さんの『東京大空襲ものがたり』と『東京大空襲』を携え、本稿に登場する現場をたずねた。
地下鉄浅草駅を降り、さいしょに言問橋に向かい、次に焼け残り電柱の現場をたずねた。本稿の趣旨に合わせ、まず電柱のことを書いておきたい。
焼け残った電柱は浅草駅南西約1キロの、幅5メートルほどの通りの角にポツンと立っている。何かの工事の作業員4、5人が通りかかったが、この電柱に目もくれない。写真を撮っていると、ベビーカーを押す女性がけげんそうな顔をして通りすぎた。電柱を実際に目にして気づいたことだが、底部は高さ50センチ、幅20センチの穴状になっており、下部は空洞になっているとおもわれた。おそらく焼夷弾が直接当たって燃えた痕跡であろう。B29が超低空飛行していた証拠といえるのかもしれない。
言問橋は浅草駅から北に歩いて十分のところ。橋のたもとに立つと、まっすぐ東(墨田区側)に東京スカイツリーがおいかぶさるように建っている。完成したのは終戦から67年後の2012年。高さは634メートル。標高642メートルの生駒山に匹敵する威容である。21世紀の日本の建設技術の結晶であるこの橋を、東京大空襲の現場をたずねたこの日、どこからでも見上げることになる。
菊島幸治さんは浅草方面からの火の粉が吹き荒れる中、言問橋を妹の手をにぎって対岸までわたりきった。橋は長さ250メートル。人々は両岸から逃げてきていて、にっちもさっちもならいほどに橋の上はぎゅうぎゅう詰めだった。そのときの橋の上の状況について、後述する「東京大空襲・戦災資料センター」で、当時14歳の少年の証言がパネル展示されている。それによると、「橋の上にいると火の粉の熱さに耐えかね、川にとびこんだ。見あげると、橋は燃え、人々は欄干にはりついていた。夜が明けると20人が生き残り、他は焼死か水死していた」という。幸治さんは火がせまるなか、必死のおもいで群衆をかきわけて逃げたのであろう。
言問橋から焼け残った電柱に向かったことは既に述べた。その電柱から南東にあるいて約40分、墨田区の緑地区にやってきた。このあたりに武者みよさんが出産した相生病院があった。みよさんをタンカにのせて医師、看護師は1キロの道を5時間もかかって両国駅たどり着いたというのだから、猛火のなかの道はごったがえしていたに違いない。JR総武線両国駅近くの広い通りの両側はいま、10階建てのマンションが建ち並ぶ。その一角のビルの壁に「ようこそ北斎のまちすみだへ」の垂れ幕がかけられ、その下に葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の絵看板。大きな波が小さな舟におそいかかるように描かれた、「富嶽三十六景」を代表する大胆な浮世絵だ。タンカのうえで赤ちゃんをだきかかえていたみよさんは、大波ならぬ大きな炎に襲われるなか、逃げ回ったのだった。
堅川は緑地区の南を東西に流れる運河だ。その上を首都高速道路がはしっている。幅約25メートルの川の両岸はマンションが連なっているので日がささず、緑色の川面がふかくよどんでいるように見える。堅川にかかる三之橋にはなぜかトラック数台が駐車していた。武者佐和さんは三之橋のたもとのポンプ場に逃げて切り抜け、橋本代志子さんは川にとびこんだとろころ、イカダが流れてきて窮地を脱した。ポンプ場とイカダ。下町ならではの風物が二人の命を救ったのだ。ここから竪川沿いにしばらく東に歩くと、木造のアパートや2階建ての小売店が軒を接する一画があった。どこもかしこも近代的なマンションが林立するなか、昭和の下町に出合って、なぜかほっとした。
堅川は三之橋から1キロ東の地点で、横十間川と交差する。斎藤うた子さんが横十間川に浮かぶイカダからイカダへと移って逃げていると、B29が突っ込み機銃掃射してきた。横十間川のとなりに猿江恩賜公園が広がる。もとは貯木場だった。堅川や横十間川に浮いていたイカダはこの貯木場から流出したのであろう。猿江公園では大空襲後、多数の遺体が土葬で仮埋葬された。橋本代志子さんはイカダで助かったが、そのイカダもB29に狙われたのだ。機銃掃射が数センチ違っていたら、代志子さんは土葬にされかねなかった。
横十間川沿いに南に約1キロ歩く。中層マンションが並びたつ通りに「東京大空襲・戦災資料センター
がある。空襲に関する資料を収集していた市民団体「東京空襲を記録する会」が東京都に公立資料館の建設を求め、都が建設計画をたてたものの、1999年に凍結。このため同会が広く募金を集め、2002年、開館にこぎつけた。3階建てのこじんまりとした施設だが、初代館長となった早乙女さんの思いがこもる「体験記パネル」など、地に足がついた展示として評価されている。言問橋での体験を綴った前述の証言はその一つだが、わたしは背負っている赤ちゃんのねんねんこが炎を上げている絵に息をのんだ。足もとにに赤ちゃんが転がっている。この子は大丈夫だったのだろうか。橋本代志子さんの背中の子どもの口に火の粉が入ったとき、代志子さんが気付いて助かったが、あわやこの絵のような地獄に陥るところだった。
展示室には焼夷弾の模型も展示されている。六角柱の外枠内に仕込まれた油脂の入った子弾が火を放つ仕組みだ。これが土砂降りの雨のように下町をおそい、なめつくしたのであった。
映像コーナーがあり、スクリーンに早乙女さんが東京大空襲を入館者に説明している様子が映しだされている。このなかで早乙女さんは襲撃してきたB29について「279機」と述べている。『東京大空襲』では、大本営発表として130機と記載したが、その後の調査で正確な機数が判明したのであろう。
3月10日以前も無差別爆撃
早乙女さんは「3月10日の空襲はそれまでのものとは全く異なる」という。3月10日以前は、B29は高度1万メートルをとび、工業地帯の破壊を目的とし、都市の軍事目標に向けて爆弾を投下した。これに対し、3月10日は非戦闘員を対象にした無差別焼夷弾爆撃に踏み切ったと指摘している。
3月10日の大空襲が初めての無差別爆撃というのが一般的な認識となるなか、2011年11月、東京への空襲をカメラに収めた未公開の写真ネガ583点が見つかった。このネガを入手したNHKが2012年3月18日、「ドキュメント東京大空襲――発掘された538枚の未公開写真を追う」のタイトルで放映した。わたしはこの番組を見ていないが、同名のタイトルで同年、一冊の本にまとめ、新潮社から刊行された。以下は同書からの引用である。
ネガのシートには撮影ポイントが記されており、撮影日と場所がわかる。
1944年11月24日、荏原区(品川区荏原)で撮影された写真。B29が初めて東京を空爆した日だ。20点余りあり、住宅が壊滅的に被害を受けた様子を収めている。ガレキの山から遺体を引きだすためのとび口を持った人が写っており、取材班は「3月10日以前は軍事施設をターゲットにしていた」とのそれまでの説明とは全く違うとの印象を受けた。
1944年11月27日、原宿。荏原空襲から3日後、B29による2回目の空襲は原宿を襲った。写真は64点。破壊された民家にまじって、火につつまれた住宅の周りを取り囲むように見守るモンペ姿の女性やバケツを手にした女性が写っている。バケツリレーをしているのだ。ほかに拝殿の屋根が被害を受けた東郷神社なども。「軍とは無関係な市民や神社が狙われたのはなぜか」。取材班は米軍の意図に疑問をおぼえた。
1944年12月3日、荻窪(杉並区)。原宿への襲撃の1週間後、現在のJR荻窪駅付近が爆撃。撮影されたのは81点。駅前の陸橋が破壊されたほか、駅から南2キロの高井戸第4国民学校(現・高井戸第4小学校)にも爆弾が落とされた。焼け焦げた柱だけが残る校舎や、焼け跡から教科書を拾いあげる子どもが写っている。その日は日曜日だった。子どもたちは月曜日から通うはずの学校を失ったのだ。
1945年1月27日、銀座。77点のネガには、銀座の中心部がB29の激しい爆撃を受けた様子が写しだされている。地下鉄京橋駅や服部時計店、日本劇場なども写っており、米軍があえて我が国一番の繁華街を襲ったことが歴然としている。取材班が丁寧に点検すると、1点のネガには6カ所から煙が上がっており、その煙は一直線に並んでいる。爆弾は一直線上に落とされたのだ。「無差別に落とされたのだ」。取材班は無差別攻撃であると確信した。
戦争犯罪の無差別絨毯爆撃
NHKの取材班はこうしたデータから、東京への空襲は軍事施設だけを目標にしたのではなく、市民への無差別攻撃であったと結論づけた。では早乙女さんの主張は誤りだったのだろうか。
戦後70年の2015年、『東京空襲写真集』(勉誠出版)が刊行された。早乙女さんが監修、東京大空襲・戦災資料センターが編集して、1400点もの写真を収めた東京空襲の決定版だ。このなかに、焼夷弾の直撃を受けて倒れた人が写る一コマがあり、「まだ生きている」とのキャプションがついている。
この例にも見られるように、3月10日の空襲は、それ以前の空襲とは明らかに異なる点がいくつかある。その第一は、以前の空襲が当時の日本人の心のよりどころであった神社やその周辺(原宿)、日本一の繁華街(銀座)、山の手(荻窪)であったのに対し、3月10日は住宅が密集した下町を集中的に襲撃している。この日、北から強い季節風が吹き荒れていたが、米軍は天候を予測、木と紙の住宅が多い江東地区にターゲットを絞ったのであろう。
荏原もどちらかといえば下町であるが、住宅密集範囲は江東地区の方がはるかに広い。最初に広く円形に焼夷弾を落としていく戦法をとるうえで、江東地区がうってつけと判断したとおもわれる。
さらに大きな違いは超低空飛行で爆撃した点だ。B29は高度1万メートルを飛行することができ、日本の戦闘機は手も足も出なかった。やがて日本軍は弱体化し、高射砲による反撃のおそれがほとんどなくなったため、より無差別爆撃による効果を得られる超低空飛行に踏み切ったのであろう。高い建物が少ない江東地区はその点でも最適だった。
このように考えると、3月10日の東京大空襲は初めての超低空飛行による無差別絨毯爆撃であったことは間違いない。2007年3月9日、東京空襲で被害に遭った人たち131人が原告となり、国を相手どった東京空襲訴訟に際しての声明のなかでも「3月10日の東京大空襲は本格的な絨毯爆撃が初めて行われ、2時間余りの空襲で10万人以上の命が奪われ、100万人が被害を受け、原爆投下に匹敵する史上例を見ない大惨事」としている。この裁判では国際法学者が証言台に立ち「第二次世界大戦当時に適用された空爆をめぐる国際法に照らすと、米爆撃機の焼夷弾による無差別爆撃であった東京大空襲は明らかに違法で、戦争犯罪に該当する行為」と述べた。
裁判は2013年、最高裁で原告敗訴が確定した。しかし、東京地裁は、「無差別絨毯爆撃は戦争犯罪
という原告の主張に対し「国際慣習法化していたと理解する余地がある」と一定の理解を示した。
B29の絨毯爆撃を、早乙女さんは「電柱にでもぶつかりそうな超低空飛行」と表現した。焼け残った電柱に目があるなら、まっすぐ自分に向かって襲ってきたB29に震えあがったはずだ。焼け残った黒焦げ電柱は戦争犯罪の目撃者だったのである。(完)
