東京大空襲の現場をたずねて

東京・台東区の下町に黒焦げの丸太が立っていると聞いた。1945年3月10日の東京大空襲によって焼けた電柱だという。調べてみると、作家、早乙女勝元さんがこの電柱をもとに童話『東京大空襲ものがたり』(金の星社)を書いていたことがわかり、さっそく読んでみた。電柱によじのぼって助かった少年が、大人になった後年、電柱にまつわる悲しいできごとを語るというストーリー。電柱は今に残る大空襲の生き証人というのだ。ずいぶん前、わたしは早乙女さんの代表作『東京大空襲』を岩波新書で読んだおぼえがある。東京大空襲から100年の節目の日を控えて、電柱に会いにいくとともに、『東京大空襲』の舞台となった惨劇の跡地をたずねてまわった。
電柱にささった焼夷弾

焼け残った電柱は台東区三筋1丁目街角にたっていた。早乙女さんは1988年、新聞で電柱のことを知り、「電柱を保存する会」の宮田栄次郎さんに会った。宮田さんは「東京大空襲の時、私は中学2年生。となり町の空き地に逃げて、なんとか命拾いした。もどってみたら、父の工場も家もみんな丸焼け。どこまでもつづく焼け野原に、この電柱だけが真っ黒になって残っていて、だれもが励まされた」と話した。戦後、家がたてこんで交通の邪魔になり、電柱を切れという声がでてきたが、宮田さんは「東京大空襲を忘れないために残すべきだと」と主張。たまたま電柱のそばにあった宮田さんの工場が遠くに移転、跡地にマンションが建つことになり、電柱をマンションの壁ぎわに移動させたという。
電柱は1995年、江戸東京博物館で保管されることになり、現地にはそのレプリカがたてられた。2022年8月、「空襲の記憶語る」のタイトルで毎日新聞が報道。92歳の宮田さんが取材に応じ、「戦前、この場所にはパラシュートの留め金などを製造する工場があった。電柱は工場に電気を引きこむためのもので、木製で高さは約7メートルと通常の電柱より高かった」と語った。焼け残った電柱は高さ3・5メートル。上半分は燃えてしまったのだ。記事は「戦争の記憶を風化させないようにという思いが込められた戦跡が、下町の街並みを見まもっている」とまとめている。この記事の3カ月前、早乙女さんは亡くなっている。記者は早乙女さんの思いをイメージして記事にしたのかもしれない。
早乙女さんは東京大空襲のとき、電柱の約2キロ北東の向島区寺島町(現・墨田区東向島あたり)に住む中学1年生だった。空襲とともに、早乙女一家はリヤカーに荷物を積み、四方が燃え盛るなかを逃げだした。するとB29が電柱にぶつかりそうな超低空飛行で、一直線で突っ込んできて焼夷弾を落とした。焼夷弾はそばにいた男性ののど首に火をふいて突き刺さり、その横を走っていた女性の左肩をかすり、電柱にささってあたり一面を地獄絵図に変えてしまった――と『東京大空襲』のなかで表している。一歩まちがえれば早乙女さんが犠牲になっていたかも知れなかったのだ。この時の体験から、焼夷弾と電柱が早乙女さんの脳裏に焼き付いていたのだろう。宮田さんの話を聞いて、童話にして子どもたちに大空襲の恐怖を伝えようと思いたった。
ものがたりの主人公は宮田さんがモデルとおもわれる勇太。卒業式に出るため疎開先から家に戻ると、姉の咲子が生まれて半年にもならない女の子の蛍子をあやしている。3月10日の夜、B29が次々に来襲。一家は逃げだすが街は火のうみ。そこに一本の電柱があり、そばの二階の窓がぽっかり空いている。勇太が電柱にとりつくと、咲子が「この子をしょって」と蛍子を両手にかかげる。その時、B29が電柱すれすれにおそってきた。勇太は二階の窓にしがみついたが、蛍子はあっという間に光の波にうばわれ、電柱がマッチぼうみたいに火をふきだした。
わが子を目の前で失った咲子は40年後、公園のベンチから焼け焦げた電柱を見つめて「ほう ほう ホタルこい」とつぶやくようにうたう。大人になった勇太は、小学生の自分の子どもに「おばさんには、わすれたくてもわすれられない思い出があるんだ」と、電柱のところで起きた悲劇を語る。
以上が『東京大空襲ものがたり』の粗筋だ。早乙女さんは1970年に『東京大空襲』を著した。自らの体験に加えて、空襲に遭った多くの人に取材して書き上げた力作だ。この取材で得たデータをもとに『東京大空襲ものがたり』の構想を練ったのではないだろうか。そうおもって、わたしは『東京大空襲』を読み返した。
火の海になった″水の下町″
早乙女さんは東京大空襲の概要を『東京大空襲』のなかで、つぎのように記している。
(1944年)10日0時15分空襲警報発令、それから2時37分までの142分間に、死者8万8793名、傷者4万918名、罹災者100万8005名、焼失した家屋は26万7171軒、半焼した家屋971軒、全壊が12軒、半壊が104軒、計26万8358軒(警視庁資料による)。ことにその被害は主として江東ゼロメートル地帯に集中し、浅草区、深川区、本所区、城東区の4区は、ほとんどが全滅に近い決定的ともいえる大被害を受けた。私の住んでいた向島区でも5割7分が焼け、本所区などでは、実に9割6分を一挙に焼失してしまった。
それ以上に忘れてはならないのは、全部で8万から10万におよぶ犠牲者を出し、関東大震災の東京市の死者5万8000名をはるかに上回り、さらにのちの長崎はいうまでもなく、広島の原爆におとらぬ空前の大被害になったことである。この夜、B29により投下された爆弾は100キロ級6発、油脂焼夷弾は45キロ級8545発、同2・8キロ級18万305発、エレクトロン焼夷弾1・7キロ級740発(消防庁資料による)。中心地では1平方メートルあたり3発という、驚異的な焼夷弾の豪雨がふりそいだことになる。
この記述に挙げられた各区は現在の墨田区、江東区、台東区にあたる。隅田川と荒川にはさまれた都心東部に位置し、東西、南北に運河がつらなる″水の下町″だ。早乙女さんは補足して次のようにしたためる。
先にやってきた2機のB29が房洲沖に退去したとみせかけ、都民が安心したところに、130機のB29(大本営発表)が、4万8194発の焼夷弾を満載(警視庁資料による)し、高度3000メートルからさらに高度を下げ、東京湾上水面すれすれに滑空。機首を江東地区に向け、いったん広く円形に焼夷弾をおとして円の外に逃げられないようにしたあと、円内に超低空飛行して雨あられと焼夷弾を降り注いだ。当時、強い北風が吹き荒れており、木造の民家が密集する下町に火が燃え広がるなか、逃げ場を失った住民たちにB29は絨毯爆撃を加えた。
米軍はサイパンを占拠したことから日本本土への空襲作戦を展開、前年11月24日を皮切りに、12月には15回の空襲があり、1945年2月には751機が来襲、爆弾1473発、焼夷弾8262発を投下した。米軍は日ましに空襲を激しくし、3月10日、ついに大空襲を敢行した。
猛火のなかの決死行

早乙女さんは、何の罪もない市民が無差別爆撃によって10万人もが殺された事実を記録しなければと、戦後20年がすぎたころ、遺族らに取材をはじめた。当人の口は堅く、取材は難航したが、早乙女さんの熱い思いにふれて徐々に口を開きはじめた。
武者みよさんは14人めの赤ん坊の出産で3月9日、近くの相生病院に入院、警戒警報が鳴るなか、陣痛がはじまった。女の赤ちゃんが生まれると同時にB29が来襲、猛火が病院に迫ってきた。院長は10人の患者をともなって逃げることを決断。医師、看護師14人は、赤ちゃんを抱きしめたみよさんをタンカにのせ、国鉄両国駅に向かった。途中の道には避難者が殺到、見動きできない状態に。「ここに生まれたばかりの赤ちゃんがいます」と叫びながら、わずか1キロの道を5時間もかかって両国駅に着き、近くのアパートの一室にみよさんらをおちつかせた。しかし、未熟児で生まれた別の赤ちゃんは、お母さんに抱かれたまま息たえていた。
みよさんの義弟、武者佐和さんは、兄、栄さん(みよさんの夫)が経営する電気製作所の一員。空襲とともに、妻と子ども3人を二つの防空壕に誘導した後、工場に引き返した。工場の裏手から火が噴き出したので、防空壕に引き返そうとしたとき、防空壕から青白い火柱が空高く上がっていた。二つの防空壕には19人がいたが、防空壕に近づくことができず、佐和さんは竪川の三之橋のそばのポンプ場に向かった。ポンプ場の一か所の窓のガラスをたたき割って侵入、九死に一生を得た。
橋本代志子さん一家も防空壕にいたが、壕から逃げることにした。火が迫ってきたので、竪川のふちを走り、三之橋の上に出た。川の両側は火の海。川に浮いた荷物も燃えている。背中の子どもがギャッと声をあげたので、子どもを降ろすと、口の中に火の粉がはいり、カーッと燃えている。代志子さんの髪も燃えだし、「子どもといっしょに死ぬんだ」とおもった。そのとき、父が「川にとびこめ」と叫んだので、子どもを抱いて飛びこんだ。イカダが流れてきたので、子どもをイカダにのせて橋を見あげると、大勢の人がひしめくなか、火がごうごうと音をたてている。父母の姿は見当たらなかった。火の粉がイカダに落ち、これまでと思ったが、子どもの顔を見て、頑張らねばとおもいなおした。
斎藤うた子さんは、一足先に逃げだした母と妹のあとを追って、弟の利雄君と家を出た。大八車を引いた人らであふれている道路にB29が襲い、焼夷弾が直撃。横十間川にイカダが浮いていたので、橋からイカダにとびおりた。水中にもがき苦しんでいる人が大勢いて、助けようとしたが、どの人も抱えた荷物を放そうとしない。「荷物捨てて」とどなってもききめなく、みんな死んでいった。イカダからイカダへと移って逃げていると、B29がイカダめがけて突っ込んできて機銃掃射を浴びせてきた。まわりにいた人たちは次々に倒れる。B29はいったん空に舞い上がり、旋回して急降下。爆撃者がニヤニヤ笑っているのをうた子さんの目がとらえた。機銃掃射から逃れると、今度は火が襲ってきた。絶体絶命かとおもったが、なんとか岸壁にたどりついた。
菊島幸治さん一家6人は人波にのまれながら、墨田川にかかる言問橋に向かった。両岸とも火が迫っていた。どちらの人たちも「このままでは焼き殺される」と対岸に逃げようとしたため、橋の上はごった返していた。引き返すことも進むこともできず、一家は欄干にくぎ付けになった。浅草方面からの火の粉が頭上にふき荒れ、荷物から荷物へと次々に燃え移る。このままではB29の標的になることは目に見えている。「ぼく、先に行く」。中学生の幸治さんは8歳の妹の手をにぎりしめ、対岸に向かった。倒れている人を踏んづけ、荷物をかきわけて橋をわたりおえた。錦糸公園にたどりつき、幸治さんと妹は助かった。しかし、言問橋で別れた父、母、姉、弟とはそれっきりに。9日の夜、ウズラ豆を煮て、みんなでニコニコ笑って食べた6人の家族は二人きりになってしまっていた。
以上は、取材に応じた人の体験談だから、当然のことながら生き残ることができたケースだ。しかし、ここに登場した人たちは家族を失っていた。
武者みよさん一家では父、母、夫、長男、次男、三男、四男、五男、長女、次女、三女、四女、五女、六女、七女の15人が死亡。武者佐和さんの家族では妻、長男、次男、長女の4人が亡くなった。橋本代志子さんは父、母、妹の3人、斎藤うた子さんは母、三女の2人、菊島幸治さんは父、母、姉、弟の4人を亡くした。本稿に登場した5人に共通しているのは、我が子や弟を失ったことだ。命拾いしたものの、喜ぶことはできなかった。むしろ、代わって自らが死ぬべきだったと悔恨にかられたに相違ない。空爆に遭った人たちの口が重かったのは当然であった。5人は迷いに迷ったあげく、胸をしぼるように口を開いたのだ。 (明日に続く)