びえんと《レイテ島決戦の陰で泣く慰安婦 上》文・井上脩身

 『もうひとつのレイテ戦』の表紙

太平洋戦争の敗色が濃厚となるなか、レイテ島決戦が始まったのは1944(昭和19)年10月20日だと新聞のコラムで知った。その日はわたしが生まれた日である。日本軍が占領していたフィリピンのレイテ島に米軍が上陸、激戦が繰り広げられた。日本軍は約8万人が戦死する壊滅的打撃を受けたが、この戦いではじめて特攻隊を編成、体当たり攻撃という異常な戦闘態勢を展開していく契機となった。レイテ戦について資料を集めると、おもいがけない本に出合った。『もうひとつのレイテ島』(発行・ブカンブコン)。慰安婦にさせられたレメディアス・フェリアスさんが、性暴力を受けた体験を著わしたもので、「日本軍に捕らわれた少女の絵日記」の副題がつけられている。玉砕と特攻という「聖戦」のかげで、日本軍が現地の人たちの尊厳を踏みにじっていたとき、わたしはこの世に生を受けたのであった。

リターンしたマッカーサー

レイテ島に上陸したマッカーサー(ウィキベテアより)

レイテ島はフィリピンのほぼ中央に位置し、南北180キロ、東西は広いところで65キロの南北に細長い島。日本軍8万4000人が守備をしていたこの島に、ダグラス・マッカーサーの総指揮のもと、10月20日、米軍約20万人が上陸した。太平洋戦争序盤の1942年、アメリカ極東陸軍司令長官としてフィリピン防衛に当たっていたマッカーサーは、破竹の勢いの日本軍に敗れ、「I shall return」の名文句を残してオーストラリアに脱出した。そのマッカーサーが約束どおり、リターンしたのであった。日本軍は島内の飛行場周辺に陣地を築いて抵抗したが、戦車や火炎放射器を駆使した米軍の猛攻に耐えきれず、密林を敗走。壮絶な戦闘に加えて飢餓に見舞われ、約2カ月でほぼ全滅した。
注目されるのは、この戦闘に際して特攻隊が初めて編成されたことだ。半藤利一さんは『昭和史1926―1945』(平凡社ライブラリー)のなかで、次のようにその経緯を表している。
米軍上陸の直前、軍需省航空兵器総局長、大西滝治郎中将がレイテ島決戦最前線のマバラカット基地におもむき、同基地副長の玉井浅一中佐に「ゼロ戦に250キロの爆弾を抱かせて体当たりやるほかに、確実な攻撃方法はない」ともちかけ、特攻隊が編成されることになった。実際にはその1週間前に「適当な時期に神風攻撃隊の発表を行う」ことが軍部内では決まっており、大西中将が表面化させたのだった。
玉井中佐は「どうせ特攻にだすなら、自分の教え子を」と当時23歳の関行男大尉を指揮官に選任。関大尉は10月25日、基地を飛び立ち、再び帰ることはなかった。出発前、関大尉は「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。しかし、命令とあれば、やむを得ない。日本が負けたら、KA(家内)がアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬ」と語ったという。
海軍は10月28日、特攻について「命令ではなく志願による」と発表。しかし、関大尉が述べたように、特攻隊員は命令と受け止めていたのである。
レイテ島では沖合でも壮絶な会戦が展開された。前掲の『昭和史1926―1945』 によると、駆逐艦以上の艦艇198隻、飛行機2000機が敵味方に分かれて、死闘の限りを尽くした。日本軍は「全軍突入せよ」の命令のもと、絶望的な突撃を繰り返すなか、特攻作戦を展開。海軍は特攻機333機を投入し420人が死亡。陸軍は210機を投入し、251人が死亡した。この特攻攻撃によって米軍の艦艇22隻が沈没、110隻が損傷した。この会戦で失った日本軍の航空機のうち、特攻で失ったのは14%に過ぎず、それに比して戦果が大きかった。これに味をしめた日本軍は特攻攻撃に傾斜、終戦までに海軍4146人、陸軍2225人、計6371人が戦死した。

性暴力をあばく絵日記

慰安婦であったことを名乗ったフェリアスさん(ウィキベテアより)

レイテ島に日本軍が駐留をはじめたのは、マッカーサーが退去後の1942年5月。軍は5つの飛行場をつくるなど、この島を本土防衛上の戦略的拠点とした。当時の島の人口は91万人。島民はサトウキビ、タバコ、ヤシなどを栽培して生活を支えていた。食糧確保に躍起となる日本軍の存在が、島民に喜ばれるはずがなく、同島の9割が抗日ゲリラの支配下にあったという。
レメディアス・フェリアスさんは1928年、4人姉妹の末っ子として同島中央のブラウエン町エスペランサ村で生まれた。村の周辺には4カ所の日本軍飛行場があり、やがて激しい戦闘が行われることになる。親は農業をいとなみ、ココナツ、トウモロコシ、コメを植えていた。一家はしあわせに暮らしていたが、フェリアスさんが14歳のとき日本軍が進駐、捕らえられ「慰安婦」として日本軍兵士への性的奉仕をさせられる。戦後、解放され、19歳のとき結婚したが、日本軍の性奴隷であったことが原因で破綻、故郷を出てマニラへ。そこで出会った男性と結婚し4人の子どもをもうけたが、男性が死亡し一人で子どもを育てた。1993年、元慰安婦への支援組織「リラ・ピリピーナ」の呼びかけに応じて、慰安婦であったことを名乗りでた。
フェリアスさんはリラ・ピリピーナの活動拠点であるマニラの「ロラズ・ハウス(ロラの家)」で仲間に囲まれながら、レイテ島での体験を絵に描きだした。それまで絵を描いたことがなかった彼女は、記憶をたぐりよせながらクレヨンを手にしたのだった。フリージャーナリストの竹見智恵子さんがレイテ戦の戦跡をたどる取材をしていてフェリアスさんの体験画と出合い、「絵には少しも陰りがなく、無垢な心がそのまま描きだされている」と感動。竹見さんが尽力し、1999年、本として出版されることになった。
70ページの同書には20点余りの絵が掲載され、それぞれにフィリピン語でその様子が記されている。 (明日に続く)