1931年の満州事変の翌年、関東軍(満州に駐留していた日本軍)が中国東北部につくった満州国と言う傀儡国家の正統性を確保するため、清朝最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)を帝位に就かせた。「王道楽土」の建設、「五族(日・満・漢・モンゴル・朝鮮)協和」といったスローガンを掲げたが、実権は日本人が握った。
戦前の軍部は満州国と言う傀儡国家を設立してまで、領土の拡大を望んでいた。資源のない日本国土よりも地下資源に恵まれていた満州(現中国東北部)を手に入れる必要があった。
満州地域への侵略を拡大し、日本の領土と権益を広げるためだったらしい。日本は1890年代の日清戦争や20世紀初めの日露戦争以来、朝鮮半島や中国への侵略を進め、日本軍の駐留や南満州鉄道などの利権を認めさせて来た。
勿論国際世論は日本の暴挙を認めてはいなかった。しかし日本国家と言う暴力装置は国際連盟からも脱退し戦争に突き進んでいったことは周知の事実だ。
そして敗戦。General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(日本語では、「連合国軍最高司令官総司令部」)が東京に駐留した。これから米軍の占領軍政が始まる。
その直後、我が国ではGHQに対する姿勢が議論されていた。敗戦と言う未曽有の事態に国民はおろか識者、政治家なども戸惑い、苦しんだことだと思う。しかし我が国は近い過去に同様のことを他国にしてきたのだ。それも侵略に次ぐ侵略、謀略、戦争まがいの「事変」などで。
特に朝鮮は日本によって1910年の韓国併合から1945年の日本敗戦までの35年間、朝鮮半島を植民地支配されてきた。
敗戦直前、太平洋戦争の終戦交渉で、昭和天皇と統治エリートが最後まで「国体護持」にこだわった。それは敗戦直前の1945年8月9日の御前会議で、天皇制を護持することを条件にポツダム宣言の受諾が決定された。国体護持である。これは天皇制の維持を目的とした御前会議だった。
沖縄では20万人もの人が犠牲になり、東京や大阪が空襲で焼け野原にされ、ヒロシマやナガサキには原爆を落とされた挙句の御前会議での「国体の護持」が条件だった。ここでふと思う。
国体(国家)の前には国民はいなかったのだ。