「戦争をしてはいけない」と誰もが言います。しかし、その方法となると「軍備を増強して戦争を抑止する」から「非武装で外交によって平和を守る」までさまざまです。第二次世界大戦中の沖縄戦では各地で激しい戦闘が続き、人の命を奪うだけでなく生活基盤や社会インフラ、自然などすべてが破壊し尽くされました。その中で軍事施設がなく日本軍がいなかった島では破滅的な破壊を免れた例が見られます。いま、琉球弧(南西諸島)の島々に自衛隊のミサイル基地を含む軍事施設が配備され、日米の一体的な軍事体制が強化されつつありますが、沖縄戦での非軍備の島の体験は最近の軍備増強化は島の平和維持に逆行していることを教えているように思います。1944(昭和19)年10月10日、那覇市をはじめ琉球弧の広い範囲に米軍の大規模な空襲が行われました。十・十(じゅう・じゅう)空襲あるいは沖縄大空襲と呼ばれ、病院や学校なども爆撃を受けた無差別攻撃でした。
沖縄島・那覇港の西約22km、慶良間(けらま)列島・渡嘉敷(とかしき)島の東約7kmに前島(渡嘉敷村)という名前の細長い島があります。大空襲当時、前島には52世帯274人が住んでいましたが空襲の少し前、前島に渡嘉敷島の基地第3隊の大隊長など5人の日本軍兵士が島の測量にやってきました。一個小隊の兵を配備するためでしたが、渡嘉敷国民学校の前島分校長、比嘉儀清は駐屯を思いとどまるよう大隊長に具申し、配備を諦めさせました。
元上等兵で元警察官でもあった比嘉は日中戦争につながった上海事変(1930年代に2度起きた日中両軍の衝突事件)の際の経験から「兵隊がいなければ敵も攻撃しない」という考えを持っており、「住民を守るため」と言う大隊長に「兵隊がいること自体が住民のためにならない」と決死の覚悟で駐留しないよう具申。全責任をもって島民を預かると言って大隊長を説得し、青年学校教官、防衛隊長、竹ヤリ訓練の執行責任者になりました。
1945(同20)年3月27日、米軍が渡嘉敷島に上陸しました。前日米軍が上陸した座間味諸島を含め、慶良間列島全体で壮絶な戦闘が展開されたのです。しかし、前島だけは戦闘もなく、犠牲者も出ませんでした。前島には米軍の斥候5人と軍用犬に続いて1個中隊約150人が上陸しましたが、島に軍事施設がないことを確認して去ったそうです。住民は比嘉を先頭に集団で投降しました。米軍通訳が島の老人に「この島には日本軍がいないので今後は空襲や弾を撃たないから安心して生活してください」と言ったという話が伝わっています。
沖縄島中部の東部海岸に突出する勝連半島から海中道路を通じて連なる平安座島(へんざじま)、宮城島、伊計島(いけいじま)およびその南側の浜比嘉島(はまひがじま)でも住民の犠牲はありませんでした。それは島には日本軍も軍施設もなく、移民帰りの住民が米軍と交渉したことなどもあって住民全員が抵抗をせず、米軍に保護されたからです。
これらの島々の体験は、軍備に頼らないことや冷静な判断ができる指導者が住民を守るために必要なことを示唆しています。