兵庫県知事選で再選した斎藤元彦氏がPR会社に報酬を支払ったことが買収に当たる疑いが浮上、県警や地検が捜査にのりだすことになった。だが、斎藤氏の選挙にメスを入れるべきなのは、むしろ立花孝志氏(「NHKから国民を守る党」党首)が斎藤氏支援のために立候補したことであろう。立花氏は候補者の地位と権利を「斎藤勝利のために最大限駆使した。斎藤陣営は候補者二人分の選挙運動を展開できた結果、111万票もの大量得票を上げたのである。これほど不平等・不公正な選挙はかつて例がない。公明・適正という公職選挙法の精神に反していることは明白だ。斎藤氏の当選は無効であるとわたしは考える。今回の知事選は、1期目の知事であった斎藤氏のパワハラに関する内部告白者に対する懲戒処分に端を発し、県議会が斎藤知事に不信任決議を突き付けたことから実施されることになった。10月31日に告示され、失職した斎藤氏が立候補を表明、前尼崎市長の稲村和美氏をはじめ、立花氏ら6人も立候補して争われた。
斎藤氏は当初、駅頭に立って「私は政党も組織もなく、一人でたたかっている」と、さむざむと演説。通勤客らは一瞥することもなく、通りすぎていった。そのころ立花氏は信じがたい行動に出た。NHKで流される政見放送のなかで、パワハラの内部告白者(その後自死)について、「10年間で10人と不倫していた」と語り、パワハラ問題を不倫問題にすり替えた。さらに街頭演説では「斎藤さんは悪くない」などと言葉を尽くし、孤立無援の斎藤氏を押し上げた。
斎藤氏は初当選した2021年の知事選で約86万票を獲得している。立花氏がSNSで″斎藤濡れ衣論″をぶち上げると、3年前に斎藤氏に一票を投じた人らが、「自分は間違っていなかった」と斎藤氏の街頭演説に耳を傾けだした。「わたしはたった一人で厳しい戦いをしている」と言い続ける斎藤氏の″お涙頂戴″話にひきこまれた。こうした街頭演説の様子がSNSで流れるたびに群衆が増え、選挙後半には街宣車の周りを渦巻くほどに。そこに立花氏の街宣車がやってきて、「斎藤さんはいい人だ」と持ち上げると、大喝采が湧きあがった。
以上は、ネットによって知った。わたしは選挙中盤、新聞社の世論調査で「稲村氏を斎藤氏が追い上げている」との報道が出るまで、稲村氏の当選は動くまいとおもっていた。「追い上げる」との表現から、当初の10対4くらいの差が10対7くらいまで迫っているのだろうと推察。意外におもい、斎藤氏の選挙状況をネットで見ると、街頭演説は熱気にあふれている。「石丸現象だ」と感じた。
さらにネットの検索範囲を広げると、「斎藤さんはパワハラしていない」との主張がSNS上で氾濫していることに驚きをおぼえた。斎藤氏がパワハラをしたかどうかは、県議会の百条委員会が県職員にアンケート調査したところ、4割が「パワハラを見聞きした」と答えており、「パワハラをしていない」と言い切れるはずがない。わたしは「石丸現象」に加えて、フェークニュースや品性の欠く情報をも取り込んで有権者に迫るトランプ型選挙とみた。斎藤氏にかくも多くの人が投票した事実は、我が国の選挙における「トランプ現象」の第1号といえるであろう。
繰り返しになるが、斎藤氏の選挙は、斎藤氏個人の動きを核としてSNSで拡散したことによる石丸現象と、斎藤氏のために立候補した立花氏の演説をネット上で炎上させるトランプ現象の二重構造であった。石丸現象は従来の地べた型選挙からネット型選挙に移りつつあることを表すもので、それ自体は違法ではない。スマホしか見ない若者など、新たな票の掘り起こしにつながるというプラス面もあろう。これに対し、トランプ現象は、有権者の正常な判断を狂わせて投票させるという悪質な手段に基づく現象である。ともにSNSを駆使して引き起こされる点で共通しているが、同列に語ることはできない。
斎藤氏がPR会社に報酬を支払って行った選挙運動(斎藤氏は71万円の報酬はポスター代と主張)について、神戸学院大の上脇博之教授らが公選法の買収容疑で告発、県警と地検は12月16日、告発を受理した。事件として成立するかどうか注目されるが、問題なのは立花氏の「候補者」を悪用した活動であることは縷々述べた通りである。
公選法は「憲法の精神にのっとり、選挙が選挙人の自由に表明せる意思によって公明かつ適正に行われることを確保し、もって民主政治の健全な発達を期する」(第1条)とうたいあげている。「公明かつ適正」に行われるためには、憲法の「法の下の平等」の原則にしたがい、候補者の権利・義務は平等でなければならない。立花氏が斎藤氏の当選のために立候補したことは、公選法の理念に照らせば、余りにも不平等な行為であり、不適正と断じるほかない。上脇教授は自民党の裏金問題を暴き立てて時の人となった。ぜひ、斎藤氏の不公平選挙についても、憲法学者の立場から鋭く暴きだしてほしい。今回のような不公正選挙が許されるならば、民主政治が崩れ去るであろうことは火を見るよりも明らかだからである。