連載コラム・日本の島できごと事典 その157《からゆきさん》渡辺幸重

サイゴン在住のからゆきさん(ウィキペディアより)

 「からゆきさん」とは九州地方の西部や北部の言葉で、明治時代から昭和初期まで中国や東南アジアなど海外への出稼ぎのことあるいは出稼ぎに行った男女のことをいいます。島原地方(長崎県)や天草地方(熊本県)出身者が多く、長崎県の長崎港や口之津港などから海外に向かいました。特に出稼ぎだけでなく売られたりだまされたりして売春婦となった女性が『からゆきさん』(森崎和江著1976年)や『サンダカン8番娼館』(山崎朋子著1980年)などで取り上げられたことから「からゆきさん」というとこれらの女性を指すイメージが強められました。からゆきさんとして過酷な運命にさらされた女性の数は数万人、10~20万人、30万人とばらばらで確かな数はわかりませんが、背景には貧しさがあることを忘れてはなりません。実家に仕送りを続ける人も多かったでしょう。“ジャパゆきさん”という新しい言葉も思い出しますが、貧困は地域や時代を超える人類最大の悲劇かもしれません。

 天草地方は“出稼ぎの島”といわれました。佐藤トゥイウェンの論文「『孝』に殉じた天草の『からゆきさん』」によると1941(昭和16)年には出稼ぎの男女の総数は天草の人口の約6分の1を占めたということです。その原因は「抑圧と収奪という天草の歴史と密接な関係がある」とのことで、江戸時代から島原・天草の乱(1637-1638年)の背景として挙げられるキリシタン弾圧や過重な年貢負担が続き、狭い農地の割に人口が増えて食糧不足になるなど深刻な貧困状況があったからです。

 明治・大正期には人口増や食糧不足が全国各地で起きましたが、キリシタンの聖地だった天草では子どもの数を減らす“間引き”が少なかったこと、幕府直轄のときに多数の流人が送り込まれるなど入島者が多く宗門改めの制度や伝染病への恐れのため離島者が少なかったことなどが影響して天草の人口が過剰になったという指摘もあります。
 また、出稼ぎ先が多くが国内より外国であったことに関して佐藤は、天草は地理的に中国大陸に近いことや「海外でひと旗あげよう」という天草の人々の進取の気性や冒険心、たくましさが寄与したという見解を紹介しています。

 からゆきさんは12~19歳という若い女性の割合が高く、彼女らは過酷な運命にふりまわされました。海外への送り出しには女衒(ぜげん)、密航業者、誘拐者による人身売買がありました。「女衒が自分の女房にすると甘言で釣り、あとで迎えにゆくとだまして売り飛ばす」という例もみられます。

 佐藤によると、からゆきさんには「渡航途中で命を落とす」「戦乱で命を落とす」「売られるか、騙される」という悲運の例がある一方、「現地で洋妾になる」「故郷に錦を飾る」という幸運の例があったとしています。短期に大金をもうけて故郷へ帰り、家を建てた人もいましたがそれはごく少数で、いったん帰郷したものの故郷の生活に合わなくて再び海外へ出稼ぎに行った人がほとんどだったといいます。どんなにか故郷で穏やかな晩年を過ごしたかったことでしょう。

 「島原の子守歌」はからゆきさんをテーマにしており、歌詞中の「鬼の池久助どん」は女衒の名前です。長崎県南島原市の口之津歴史民俗資料館にはからゆきさんのコーナーがあり、身売りの証文やバッグなどの展示、からゆきさんの紹介ビデオなどがあります。