編集長が行く《関東大震災と横浜・関西村 #3》文・写真 井上脩身

 関西村の全景(「横浜市資料室紀要第5号」より)

90年ぶりに表に出た写真帖

関西村はあくまで復旧・復興までの仮設の村である。1924年2月末、仮設バラック500棟を翌年2月までに廃止する方針が打ち出され、関西村では1925年2月25日、解散式が行われた。
関西村病院は神奈川県による小児科と眼科が中心の病院になり、村の敷地のほぼ中央に高等小学校を新設。警察は別の場所に移された。
戦後、この一帯は大規模な区画整理が行われ、関西村当時の建物はすっかり消えた。
わたしは講座の数日後、関西村の跡地をたずねた。火の川となった中村川の上に高速道路が通り、そばに1951年に建てられた市立中村小学校の鉄筋校舎が見える。その隣に埋蔵文化財センターの朽ち果てかかった鉄筋コンクリートの建物。建物自体が文化財のような風情だが、関西村当時にはなかったものだ。小学校の西隣に市の中村地区センター。講義室や体育館があり、健康講座など、市民のためのさまざまな事業が行われている。実は関西村講座は、南図書館と地区センターの共催で行われたのだ。
地区センターの担当者に「関西村の名残をとどめるものはりませんか」とたずねると、「何もない。歴史を語り継ぐための碑をつくりたい。それには少しでも多くの人に知ってもらいたいと、講座を開いた」という。「全くなにもないのですか」ときくと、「関西村記念写真帖」と「横浜市日報」を教えてくれた。
 写真帖は2013年、市民から南図書館に寄贈されたもので、約10点の写真には関西村全景や病院、役場、小学校、奈良通りのバラックなどが写っている。関西村開設1周年を記念して撮影されたとみられ、医師、看護師らが集合した病院前の写真、児童が体操している南吉田第二尋常小学校の写真など、関西村の実態を知るうえで貴重な記録である。これらの写真が、震災から90年という時空を超えて突然表に出たことが、松本教授らが研究を始めるきっかけとなった。
 写真帖のうちの数点は松本教授の論文を取り上げた横浜市資料室紀要第5号に載っていて、わたしも目にしていたのだが、地区センター担当者の言葉から、これらの写真が重要な資料であると知ったのだ。あらためて写真を見た。不思議なことに、写っている人たちから震災に対する悲壮感が感じられない。関西村にいれば日々の暮らしができるという安心感があるからであろうか。
「横浜市日報」は横浜市が発行した。同市内にあった横濱貿易新報など3新聞社の活字を拾い集めて、震災10日目の9月11日付からタブロイド判の新聞製作をはじめた。毎日、青年会・学校・神社などを通じて市民に無料で配布し、10月31日付の第51号まで発行された。第20号を除いて横浜市中央図書館が所蔵しており、ネットで読むことができる。
 第1号の冒頭、横浜市長が「貿易都市としての横浜の面目を回復したい」との抱負を寄稿。「臨時バラック建造」(第5号)、「罹災者避難所竣工」(第10号)、「公設市場の設置」(第15号)、「学童の残存4万余、688教室必要」(第17号)、「震災救護病院開始」(同)、「救護材料陸揚げ」(第19号)など、関西村に関係する記事も掲載されている。

大正デモクラシーのなかで

 わたしは「関西村」について二つのことを思った。一つは、大阪府をはじめとする関西各府県の支援への動きの早さである。救援のため人材を派遣するだけにとどまらず、震災5日後には被災者のための病院をつくることまで決めているのだ。国からの指示や命令でなく、関西の自治体がタッグを組んで素早くやってのけたという事実は驚嘆すべきことだ。関東大震災は大正12年のことである。たしかなことはいえないが、大正デモクラシーの風潮が関係しているのではないだろうか。
大正デモクラシーはおおむね大正時代に起きた政治・社会・文化の各方面での民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮を指す。民本主義を唱えた吉野作造が「政治は民衆の利益のためにはからねばならない」と主張していたのを受けて、震災当時の土岐嘉平・大阪府知事は「民衆のために」と、躊躇せずできる限りの支援を図ったのであろうか。戦後、短期ながら首相になった石橋湛山は『大正時代の真評価』のなかで、大正デモクラシーについて「デモクラシーの発展史上、特筆大書すべき時期」と評価したが、関西村はデモクラシー発展の象徴と言えるだろう。
 ではなぜ関西村のことが後世に伝承されなかったであろうか。これが、わたしが思いをめぐらすもうひとつのことだ。これも大正デモクラシーが関係しているように思われる。
関東大震災では朝鮮人大虐殺のほか、9月16日には、無政府主義者の大杉栄が憲兵大尉の甘粕正彦らによって殺害される甘粕事件が起きた。こうしたことから、大正デモクラシーは関東大震災によって終わったともいわれる。終焉時期については異論もあるが、昭和に入って軍国主義が大手を振り、政治は天皇国家のためであって、民衆の利益のためではなくなった。大正デモクラシーは否定され、「民衆の利益」のための関西村は「なかったこと」にされてしまったのではないだろうか。関西村によって多くの被災者が生き延びることができたにもかかわらず、伝承碑のひとつも建てられなかったのはその証左であろう。
 新しい憲法が制定され、民主主義国として生まれ変わろうとした戦後になっても、関西村を見なおし、再評価する動きは起きなかった。1960年に9月1日が「防災の日」と定められた後も、関西村は歴史の底に沈んだまま浮き上がらなかったのだ。
 関東大震災が起きた100年前と現在では都市構造や住宅、交通、インフラなど全ての面で状況は全く異なる。関西村と同じものを造ったところで、適合しないであろう。とはいえ参考にすべき点は少なくないであろう。少なくとも、「被災した民衆の利益のために」という精神は今も変わらないのだ。
 2024年は、元日の能登半島地震で始まった。遠からざる将来、南海トラフ巨大地震が起きるといわれている。地震大国ニッポンはいま不気味な胎動のなかにあり、巨大地震対策は急務である。その具体策は当然のことながら「民衆の利益」のためのものでなければならない。
 民主主義の観点から、今こそ関西村を見なおすべきときである、と訴えたい。(明日に続く)