◆現代時評《古墳時代並みの明治政府、そして今も・・・》片山通夫

読売新聞が24年11月30日付で次のような記事を書いた。

仁徳天皇陵、明治期に「威厳」増幅…列強各国へアピール狙い濠の堤2mかさ上

:宮内庁は29日、日本最大の前方後円墳・ 大山 古墳(仁徳天皇陵古墳、堺
市)を囲む 濠 の堤が、明治期に約2メートルかさ上げされていたとみられると
発表した。5世紀頃の築造当初から大幅に改造して古墳の存在感を増したと考え
られ、宮内庁は「明治政府が列強各国に対し、日本の天皇制や歴史をアピールす
る狙いがあったのだろう」と分析している。
記事の詳細は以下から。

https://www.yomiurculture/20241130-OYT1T50039/


筆者を驚かせたのは、明治時代に仁徳天皇陵を囲む堀のかさ上げを2メートルし
たことよりも、威信を保つためか諸外国に「日本の天皇制や歴史をアピールする
ため」だったとしたことだ。

宮内庁の分析はほぼ間違いがないだろうが、念のため現宮内庁のHPに記載されている沿革を転記しておく。
「文武天皇の大宝元年(西暦701年)に完成された大宝令官制には、後の宮内省
の管轄したものと類似の組織があったことがうかがえます。
その後の変遷を経て、明治22年大日本帝国憲法の発布とともに、皇室典範が裁定
され、皇室自律の原則が確立しました。明治41年には皇室令による宮内省官制が
施行され、宮内大臣は皇室一切の事務につき天皇を輔弼(ほひつ)する機関とさ
れました。」

古くは大宝元年(西暦701年)の大宝令官制に習ったものだと考えられているが、
全ては明治11年位から確立されたものだという。

乱暴な言い方をすれば、明治維新など、昭和になってから皇室を絶対視しだした
が、江戸時代末期までおそらく皇室、つまり京都の都の「天子様」は、江戸の徳
川様程は知られていなくて、幕末から明治のはじめにかけて、それまでの江戸幕
府の権威を天皇に刷り変えなくてはならなかった事情があったと思う。

諸外国への権威のアピールも徳川幕府でなく、天皇を頂く王政の明治政府でなく
てはならなかった。権威付けの為なら「陵墓のかさ上げ」位はなんでもなかった
のだろう。この「商簿のかさ上げ」以外のも様々な所で「皇室の権威付け」が行
われたことだろう。
そうでなくては天皇は、いや明治政府は存在しえなかったと思う。それにつけて
も高々200年にも足りない歴史を「日本の伝統」だとか言って天皇は男系男子で
なくてはならないなどとたわけたことをいまだに言っている国会議員もいるとか。

こうしてみると我が国の政権をつかさどる人々は議員も官僚も何が目的なのだろ
うか。仁徳天皇陵の堀のかさ上げ同様、「見かけ」をよくしたら良いという事な
ら、まるで張り子の虎でしかないのだが。