びえんと《巌窟王事件から見る袴田事件》Lapiz編集長 井上脩身

再審で無罪を勝ち取って喜ぶ袴田さんの姉、秀子さんら(毎日新聞電子版より)

【Lapiz】袴田事件の再審で静岡地裁は9月26日、袴田巌さんに無罪を言い渡した。想通りの判決であったが、私が注目したのは裁判官が謝罪するかどうかであった。再審判決で国井恒志裁判長は、「5点の着衣」などの証拠を捏造と認定、冤罪を引き起こした捜査機関を厳しく糾弾した。しかし、証拠の捏造については、原審段階でも疑いがもたれていた。公正な裁判が行われていれば無罪になっていた可能性があり、原審裁判官に責任がないとはいえない。冤罪事件の原点といわれる吉田巌窟王事件では、犯人とされた吉田石松さんが逮捕されて49年後の1963年、再審で無罪を言い渡した裁判長は、判決文に「われわれの先輩が冒した過誤をひたすら陳謝する」と書き、頭を下げた。袴田再審では検察側が控訴を断念、袴田さんの無罪が確定したのは逮捕されて58年後。「巌窟翁」を9年も上回る苦節の人生をたどった袴田さんに対し、国井裁判長は判決後、「ものすごい時間がかかった」と謝った。だが、先輩の誤判に対する謝罪ではなかった。

先輩裁判官の過誤を陳謝

 吉田巌窟王事件は大正時代初期の1913年8月、名古屋市の路上で繭小売商の男性が殺害され、1円20銭が奪われた強盗殺人事件。警察が被疑者として逮捕した2人の供述から、事件の主犯として吉田石松さん(当時34歳)を逮捕した。吉田さんは否認し続けたが、1914年、控訴院(現・高裁)が無期懲役を言い渡し、同年、大審院(現・最高裁)が控訴を棄却、無期懲役刑が確定した。吉田さんは服役中「UとK(最初に逮捕された2人)に会わせろ。自分が犯行に加わったのはウソであると自白させたい」などと無実を主張しつづけ、2回、再審を請求。吉田さんは小学校2年生程度の学力しかないため、戒護主任に就学を願い出て勉強に励み、請求手続きを自分で行ったのだった。
 1935年に仮出所した吉田さんは、UとKからの「貴殿はこの事件に関係がない」とのわび状や覚え書きを基に第3回の再審を請求したが、「(吉田さんが)脅迫して書かせた」として棄却された。しかし吉田さんはめげず、1958年、第4回目の再審を請求をした。逮捕されてすでに44年がたっており、雪冤のために闘志をむき出しにしてきた吉田さんについて、弁護人は「真に冤罪者でなければあり得ない」と弁論。それでも請求は棄却された。
 吉田さんの執念は日弁連を動かし、1960年、第5回の再審を請求。吉田さんがKに偽証の謝罪をさせたときに立ち会った新聞記者の証言などがあり、再審が行われることが決定。1962年、名古屋高裁で再審が始まった。弁護人は「(吉田さんは)監獄では囚衣を着ず、監獄史上例のない53回の懲罰を受けている。被告人に一点のあやしいところがないからできること」と訴えた。判決公判で小林登一裁判長は「被告人は無罪」と言い渡し、判決理由を陳述。その「結論」の最後を次のように締めくくった。
「当裁判所はここでは被告人というに忍びず、吉田翁と呼ぼう。我々の先輩が、翁に対して冒した過誤をひたすら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続けてきた崇高なる態度、その驚嘆すべき類いなき精神力、生命力に対し、深甚なる敬意を表しつつ、翁の余生に幸多からんと祈念する

 閉廷後、裁判長ら3人の裁判官は記者会見に応じた。主任裁判官は「今度の再審裁判は、裁判の権威と人権の尊さがはかりにかけられた事案だが、これを担当して、私たち自身が人権の尊さに徹してこそ、はじめてそれを確かめられると痛感した」と語った。
 判決の時吉田さんは83歳だった。裁判官が退廷すると、裁判席に両手を合わせ、傍聴席をふりかえってバンザイを叫んだ。
 以上は再審裁判で主任弁護人をつとめた後藤信夫氏の『日本の巌窟王』(1977年、教文館)による。裁判記録をもとに著わされたこの本が822ページに及ぶ大著であること自体、雪冤に至るまでの道のりの険しさを示している。

原1審で証拠捏造疑惑

 袴田事件が発生したのは巌窟王事件再審無罪から3年後の1966年6月。静岡県清水市(現・静岡市)のみそ工場専務宅で一家4人が殺害、放火された。住み込み従業員の袴田巌さんの部屋にわずかに血痕がついたパジャマがあったことなどから8月、警察は袴田さんを逮捕した。同年11月、静岡地裁で公判が始まり、袴田さんは「(パジャマを着て犯行に及んだ、との)自白は強要されたもの」と無罪を主張。パジャマの血痕について科学警察研究所は「血液型の判別不能」と回答しており、袴田さんと結びつく証拠はなかった。
ところが、逮捕から1年がたった1967年8月、工場内のみそタンクから5点の血染めの着衣が発見された。弁護人は「真犯人が遺棄したもので、袴田さんの無実の証拠」と歓喜したが、検察側は「パジャマの上に雨がっぱをはおって犯行」との当初の冒頭陳述を変更、「この5点の着衣をきて犯行に及んだ」と書き換えた。静岡地裁は1968年9月、袴田さんに死刑を言い渡し、1970年、最高裁で死刑が確定した。
 事件が起きたときは蒸し暑かった。そんな夜、ステテコのうえに純毛のズボンをはき、メリヤスの半そでシャツのうえに長袖のスポーツシャツを着て、さらに雨がっぱをはおっていたというのだ。袴田さんの唯一の自白を検察側がみずから否定したのである。詳細は省くが、袴田さんの実家から見つけだした布切れをズボンの端切れであるとして、袴田さんのズボンの証拠と主張するなど、検察側は着衣を有罪立証の切り札にするため、ムリにムリを重ねた。
 第一審の公判での袴田さんの供述を分析した山本徹美氏は、著書『袴田事件――冤罪・強盗殺人放火事件』(新風舎文庫)のなかで、5点の着衣が見つかったことについて、「袴田さんは、自分を陥れようとしているに者たちが証拠の捏造工作を開始したと受け取った。実際にその可能性はあるし、5点の着衣が見つかったタンクの状態を仔細に点検すると、袴田さんがこの着衣を隠すことができたほうが不条理であるとさえ思えてくる」と書いている。第1審段階で証拠捏造が疑われていたのだ。
 私も着衣の出現には大いに疑問であった。この事件の犯人が殺害後放火したのは、犯行現場を焼失させて証拠を消そうとしたからに相違ない。犯行時の着衣は犯罪の重要な証拠だ。犯人は火事場に放り込んで燃やしてしまおうとするにちがいない。みそ工場の作業工程を知り抜いている袴田さんが、いずれみそが入れ替えられるタンクに隠すはずがないだろう。着衣の出現については、別に真犯人がいるか、何者かによる捏造以外に考えられないのだ。(明日に続く)