【609studio】日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に今年のノーベル平和賞が授与されることになった。ノーベル賞委員会が11日、発表したもので、国内外から称賛と歓喜の声がわきあがった。東南アジア諸国連合(ASEAN)関連首脳会議出席のためラオスに滞在中の石破茂首相は記者会見で「意義深い」と述べた。留守役の林芳正官房長官が「(被団協に)敬意を表する」と、喜びを浮かべて語っていただけに、石破首相の素っ気ない言葉が気になった。石破首相は、本心では困ったことだ、とおもっていたのではないか。私はそんな疑念を抱いた。
石破首相には、私には小さな思い出がある。20年余り前、鳥取の書家の祝賀会に招かれて指定された席についたところ、隣席は防衛長長官として初入閣した石破氏だった。石破氏は所用でまだ会場には到着しておらず、石破夫人が座っていた。新聞社に勤めていた私の初任地は鳥取。知事は石破氏の父、二朗氏だった。知事が田中角栄首相にくどかれて参院選に立候補するかどうかが県民の最大の関心事だった、という意味の昔話を夫人にしていたとき、石破氏が到着した。
席について石破氏に名刺を差し出すと、石破氏は私の顔をじろっとにらんだ。大きなギョロ目の奥から刺し込むような視線を感じ、私はいすくまった。鳥取大付属小学校の児童だった石破氏を遠くから見た覚えがある。そんな話でもしようか、と思っていたが、石破氏は私にひと言も声をかけず、会話の糸口はなかった。というより、次々に挨拶にやってくる支持者の応対に追われる石破氏の眼中に私はなかった。
私は祝宴の席で、政治家と隣り合ったことは何度かある。ほとんどの政治家は初対面の私に愛想をよくした。それが普通の日本人の社交というものであろう。私は石破氏に、「つきあいにくいなあ」という印象をもった。と同時に、支持者には顔をくしゃくしゃにして笑顔をふりまく愛嬌ある態度とのギャップに驚いた。そして、この人はあいまいなことを嫌うタイプなのだと思ったのだった。
私は石破氏の政治姿勢に、あいまい嫌いがあるように思う。とりわけ防衛政策にそれが顕著に表れている。
わが国の憲法は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(第9条2項)と定めている。このため、「自衛隊は国内法では軍隊でない」というのが政府の立場だ。日本の軍事力が世界第7位とされているにもかかわらずだ。憲法改正を政治生命としていた安倍晋三氏も「憲法に自衛隊の存在を明記する」と表明したが、石破首相は、自衛隊の実質が軍隊であるのに軍隊でないとされるあいまいさが我慢ならないようだ。かつて「防衛省」を「国防省」に変えるべきだと主張していたことがあり、「憲法9条2項を削除して、軍隊保持を認めるべきだ」との憲法改正論をぶちあげる。
では、軍隊はどのような形で日本を防衛するのか。安倍氏は日米同盟を基軸として集団的自衛権の行使容認を閣議決定したが、石破首相はさらに進めて「アジア版NATO」をうたいあげた。アジア諸国間で条約機構を設け、集団安全保障体制を築きあげようというのであろう。
アジア版NATO構想は中国を念頭に置いた発想であることはまぎれもない。アジアの小さな国々も、束になってにらみを利かせば、戦争の抑止力になるとの考えであろうか。だが、中国の後ろに北朝鮮があり、その向こうにロシアがある。核をちらつかせて威嚇する相手をにらみつけるには核武装が要る、というわけであろう。石破首相は総裁選で、アメリカの核兵器を日本で運用する「核共有」に前向きな姿勢を示し、アメリカシンクタンクのホームページには「アジア版NATOに核の共有や持ち込みを検討すべき」と寄稿した。
被団協のノーベル平和賞受賞ニュースが、石破氏のASEANの会議直後であったことは、現代史の不思議な皮肉であろう。ASEANの会議で石破氏はアジア版NATOについては何ら語らず封印したが、これらの地域はまさにアジア版NATO対象区域なのだ。
被団協受賞理由は「核兵器の使用は道徳的容認できないという国際規範の確立に多大な貢献をした」ことである。石破首相が記者会見で「長年、核兵器の廃絶に向けて取り組んでこられた団体に授与されることは、極めて意義深いことだ」と述べた。その言葉に、唯一の被爆国の首相としての感慨はひとかけらもない。
真に世界が平和になるためには、核兵器の廃絶しかない。だからこそ、今回のノーベル平和賞を、国をあげて喜び、これを機に核廃絶に向けて世界にいっそう強く働きかけていかねばならないのだ。だが、その前に「軍事オタク」の新首相に、核廃絶の意義を納得させねばならないという難題が待ち構えているのである。