はじめに
【609studio】今更ながら気が付いたことがある。写真機は無機質な物体、つまり単なる機械で道具である。言ってみれば、暗箱にレンズをくっつけただけのものである。つまりその暗箱の前にある風景もしくは出来事をレンズを通してフィルムなりCCDなりに写している道具であると言うことだ。当たり前だが、記録はモノクロームでも、カラーでも自在に出来る。・・・とここまで書いてふと思った。暗闇、暗黒の中では写真は撮れない。写らない。つまり写真とは「光が必要であり、光があれば必然的に影も出来る」のだ。
太陽のような強烈な光にレンズを向けても「写る」ことは写る。言ってみれば真っ白の写真である。
影があってはじめて像が結ばれて、それがなにかを訴えることになる。それがボクには「光と影の綾なす瞬間」と思える。
写真が伝えるもの
ボクの好きな写真作家に、日本では木村伊兵衛、土門拳、三木淳それに・・・東松照明などの各氏がおられる。海外ではロバート・キャパやアンリ・カルチェ・ブレッソンだ。
むろん、他にもむろんおられるが枚挙にいとまがないので、この辺で終わる。
なぜこんなことを書き出したのは今説明する。ボクの写真の傾向をわかって貰いたいからである。それぞれの写真家にはそれそれの作風があり、そこにはひとつの主張があると思う。土門拳氏の「筑豊の子供たち」は氏の考えで初版は週刊誌のようなわら半紙に印刷されホッチキスで製本された。定価100円、1960年・パトリア書店刊で誰でも買えた。駅の売店で売っていたと記憶するがこれは確信はない。
この写真集は日本におけるリアリズム写真の代表的な写真集だと言われている。
そう、ボクは「リアリズム写真」を目指している。
そして撮った写真の数々
こうした考えのもと、ボクは様々な所で様々な写真を撮ってきた。全てを紹介することは不可能だが、一部を「ONCE UPON a TIME」と言う写真集にまとめることができた。
1960年代からの作品の集合体である。この写真集に掲載した写真を見ていただけるとおよその僕の傾向がお判りいただけると思うし、どうしてモノクロームの写真になる。色があると見る人に様々なイメージを伝えすぎる気がするからだ。ただ自分でも不満なのがそれらの写真が額に入れて飾ろうという気にはならな代物だということだ。一応努力はした。それら写真も紹介したい。決して美しいものではないと思うが。不定期連載