連載コラム・日本の島できごと事典 その147《収容所生活》渡辺幸重

収容所生活/生活風景(食事)(那覇市歴史博物館提供)

沖縄戦で米軍に占領された地域には捕虜や民間人の収容所があり、1945(昭和20)年の9月から10月頃には12か所の収容所で約30万人の民間人が米軍の管理の下に生活していたそうです。沖縄で米軍が最初に上陸した慶良間(けらま)列島では、米軍は座間味に司令部を設置するとともに座間味島や慶留間島(げるまじま)に収容地区を設けて住民を管理下に置きました。座間味島では阿真地区が収容地区とされ、座間味・阿佐・阿真・屋嘉比島(やかびじま)の住民が合流して1軒の民家に7、8世帯ほどの家族がひしめき合って生活を送りました。1軒に10数世帯が押しかけるようにもなり、家に入れない人たちは豚小屋や山羊小屋まで利用する事態などから住民の半分以上が阿佐地区に移動しました。最終的には阿真地区の16軒の民家では45世帯289人が、阿佐地区の14軒の民家では52世帯323人が生活したといいます。
収容所生活の食糧は主に米軍からの配給で、各家族単位に簡単な竈を作って食事をこしらえ、夜は全員雑魚寝だったそうです。若い女性たちは米兵の洗濯係や米軍野戦病院での看護役などを、一般の大人は弾薬の運搬や船舶からの荷物の積みおろしなど米軍の作業をさせられました。

慶留間島では、生き残った住民が焼け残った家屋に親戚同士で共同生活を送っていたところに1945(同20)年5月7日に伊江島から約450人、6月下旬に阿嘉島から300人余の住民が米軍によって強制的に移され、収容されました。慶留間地区の人口は本来の10倍近くに膨らみ、深刻な食糧難に見舞われました。

渡嘉敷島には伊江島の住民約1,700人が強制移動させられました。渡嘉敷島の住民は日本軍と共に山中を逃げまわっており、伊江島の人たちは人が住めそうな半壊家屋50軒余を応急修理して住みました。毎食おにぎり一個ずつの米軍支給の食糧では間に合わず、かなりの耐乏生活を余儀なくされたようです。

伊江島・阿嘉島の住民が加わった慶留間島の収容生活について『座間味村史』には以下のような記述があります。人々が強制集団死(「集団自決」)の記憶に苦しんでいたことが伝わってきます。
「ただですら食糧難という状況だが、この時期の慶留間部落民にとって、伊江島、阿嘉住民がいることは、むしろ精神的な支えにすらなっていた。あの、あまりにも悲惨な肉親同士の“殺し合い”の後でもあり、にぎやかに生活をすることで、ずいぶん気持ちが救われたものだった。」