編集長が行く《特攻のまち、知覧 01》 文・写真 井上脩身

アリラン特攻隊の悲劇

映画『ホタル』のポスター(ウィキベテアより)

【LapizOnline】6月上旬、兵庫県東部の山あいでホタル狩りをした。静かな清流の上で光を点滅させながら舞う数十匹のホタルを目にし、心が和むおもいであった。一匹のホタルを手のひらにのせていて、ふと、映画『ホタル』のラストシーンをおもいだした。映画に登場するのはひとりの朝鮮人特攻隊員。彼は知覧から飛び立ち、南の海で散る。そのおもいはどうであったのだろう。「特攻のまち」といわれる鹿児島県南九州市知覧町をたずねた。

知覧から400人が特攻出撃
米軍もおそれた「神風特別攻撃隊」が初めて編成されたのはアジア・太平洋戦争末期の1944年10月20日。翌年4月、沖縄戦が始まると、重さ250キロの爆弾を装備した戦闘機でアメリカ軍の艦船に体当たりする特攻作戦が本格的に取り入れられた。4月6日に第1次総攻撃として開始、7月19日の第11次まで展開された。この間、知覧をはじめ、鹿屋、万世(いずれも鹿児島)、都城(宮崎)、健軍(熊本)など九州の基地から出撃した。九州からの部隊は「振武隊」と呼ばれ、出撃した特攻隊員は計1036人に及んだ。
このうち、最も出撃者が多かった基地は知覧で402人、次いで健軍127人、万世120人など。知覧が全体の4割を占めていたのは、九州最南端に位置していて、九州の他の基地より沖縄に近かったという地理的要因からであろう。一方、特攻隊員の出身地は、最も多いのは東京で86人、愛知県と福岡県43人、鹿児島県40人、北海道と大阪府35人など。大都市と九州に多い傾向がみられるが、注目されるのは朝鮮11人、樺太2人がいる点だ。
以上のデータは知覧平和記念館のホームページから引用した。権学俊・立命館大教授の論文『韓国における朝鮮人特攻隊員像の変容』(2017年3月、「立命館大産業社会論集」)には「特攻の犠牲者であると確認された朝鮮人18人」とある一方で、西日本新聞は2014年7月29日付の記事で、韓国紙記者の著書を引用して、「朝鮮人隊員の戦死者は17人」と記している。特攻隊は九州以外からも出撃しているので、11人よりも多いことは確かだ。私は断定できるデータを持ち合わせていないので、ここでは朝鮮人特攻隊の戦死者は17、8人とあいまいにしておくことをご容赦願いたい。
このうちの一人が映画『ホタル』のモデルとされた卓庚鉉である。日本では光山文博と名のっていた。

アリランうたう出撃前夜

知覧特攻平和会館に展示されている戦闘機「隼」(ウィキベテアより)

ノンフィクション作家の早坂隆さんは卓庚鉉ついて、「光山文博の切なき歌声」の題で評伝的な一文をネット上で公開している。以下はその概要である。
卓庚鉉は韓国併合(1910年)から10年後の1920年、朝鮮半島の慶尚南道泗川市で生まれた。祖父が事業に失敗したことから、卓庚鉉が幼少のころ、一家は京都に移り住み、「光山」姓を名のった。光山文博になった卓庚鉉は立命館中学から京都薬学専門学校に進学。1943年、同校を繰り上げ卒業になり、陸軍特別操縦見習士官の試験に合格した。権学俊氏の論文によると、陸軍特別操縦見習士官は、朝鮮総督府が「空に対する憧れ」を積極的に扇動するために採用した幹部候補生。高学歴者に1年半程度操縦技術の教育と徹底した思想統制を行って戦場に送り出す「操縦士即席養成プログラム」であったという。1期生に77人が合格したが、うち70人は朝鮮の大学に通っていた日本人。朝鮮人は7人だった。卓庚鉉は朝鮮人としては上級のエリートになったのだ。
1943年10月、卓庚鉉は大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入隊した。航空兵としての基礎訓練をうけ、休みの日には「富屋食堂」で食事をするようになった。富屋食堂は、知覧分教所が開校した翌年の1942年、鳥濱トメが開いたもので、陸軍の指定食堂になっていた。ふだん物静かで、一人でいることが多かった卓庚鉉は、自分が朝鮮人であることを告げ、トメを実母のように慕ったという。
1944年7月、卓庚鉉は宇都宮市の教育隊に転属、さらに茨城県の鉾田基地に移動したが、そのつどトメに「知覧のおばちゃん、元気ですか」とハガキをだしていた。同年10月、陸軍少尉になったが、翌月母親が死亡。「十分、ご奉公するように」が母の遺言と知り、特攻を志願。1945年3月、第51振武隊員12人のうちの一人になり、知覧で隊務を行うことになった。知覧はすでに特攻基地となっていた。
富屋食堂に顔を見せた卓庚鉉は「オレは特攻隊員だから、余り長くいられない」と語り、食堂の離れで大きく伸びをして寝転がった。出撃前夜の5月10日、卓庚鉉は富屋食堂の離れでトメや2人の娘たちに「おばちゃん、いよいよ明日、出撃」と明かしたあと、「ここにいると朝鮮人っていうことを忘れそうになる。でも、朝鮮人なんだ」といって、正座した。そして朝鮮の民謡「アリラン」を歌いだした。

アリラン アリラン アラリヨ

アリラン峠を越えて行く

卓庚鉉は5月11日6時33分、一式戦闘機「隼」に搭乗し、陸軍12隊29機、海軍11隊69機とともに出撃。沖縄近海で特攻作戦を展開したが、轟沈した戦艦は1隻もなかった。卓庚鉉は24年の短い一生を海の上で終えた。
(早坂さんは本文中、卓庚鉉を光山文博の日本名で記している)

韓国で散々の映画『ホタル』

冒頭に触れたように、卓庚鉉をモデルに、2001年、映画『ホタル』が公開された。7、8年前、テレビで放映され、私も見ることができた。主人公は高倉健がふんする特攻隊生き残り漁師の山岡だが、重要な役割を担うのは小澤征悦が演じる朝鮮人特攻隊員、キム・ソンジエ(日本名、金山文隆)。奈良岡朋子がふんする食堂の女主人とのなにげない会話のなかに、キムの心の屈折があらわれていた。この映画によって「アリラン特攻」が注目され、日本国内では観客動員数210万人という大ヒットとなった。
だが、韓国では散々であった。権教授によると、上映された映画館はわずか9館。観客数は1万5636人に過ぎなかった。2008年、独学で朝鮮語を学んだ女優の黒田福美が卓庚鉉を慰霊するため、卓の故郷、泗川市に慰霊碑を建てて除幕式を行おうとしたところ、地元の人たちが反対デモを展開、慰霊碑は撤去された。特攻隊員に対する韓国の人たちの思いは、日本人とはまるで違っていたのだ。
『朝鮮人特攻隊員の表彰――歴史と記憶のはざまで』の著書でもある権教授は前掲の論文で、「(戦時中)朝鮮人特攻隊員の特攻死は戦時動員のための絶好の宣伝道具にされた。その名前は朝鮮の新聞を通じて大々的に報道され、軍神として仰がれた
として、1944年11月29日、レイテ湾海戦で戦死した最初の「軍神」、印在雄を例にあげた。「毎日新報」が出撃の3日後から3週間にわたって、印の追悼記事を掲載したほか、朝鮮の日本語新聞「京城新聞」が「松井(印の日本名)伍長、期待裏切らず」という記事を掲載、印は「半島の神鷲」として崇められた。出身校の校庭には印の死をたたえる碑が建てられ、朝鮮人を戦争に積極的に動員する手段として利用された。
日本の敗戦によって、韓国の公的な歴史から朝鮮人特攻隊員の存在は抹殺されたと権教授。韓国では8月15日を植民地からの解放記念日「光復節」と制定、解放後、朝鮮人特攻隊員は民族の恥部、あるいは裏切り者として位置づけられたという。
1995年、「光復50年」に際し、韓国民放MBCの番組『アリラン アラリヨ』のなかで、卓庚鉉が出撃の前夜、「アリラン」をうたったことを紹介。1996年、CTNが「神風、そして未だに放浪している霊魂」という企画で、卓庚鉉らを中心に朝鮮人特攻隊員11人の行方を1年にわたって追跡した。
このように韓国側にも朝鮮人特攻を掘り起こす動きが出てきたにもかかわらず、映画『ホタル』が不人気で、卓庚鉉の祈念碑も撤去せざるを得なかったのはなぜなのだろうか。権教授は、朝鮮人でありながら特攻隊員に志願し、「天皇のために死んだ人」として神社に合祀されている点に注目。「(祈念碑に反対した市民団体は)植民地支配や歴史認識、靖国問題、戦後補償など、当時から現在に続く日韓関係の歴史的脈絡の中で考えなくてはならない存在とみなし、卓庚鉉を断罪している」と解説する。卓庚鉉が強制されて特攻隊員になったのでなく、自ら志願したことが問題視されたようだ、植民地支配された韓国の人たちの積年の憎しみが根柢に流れているのであろうか。 (明日に続く)