現代時評《サハリンでもあった朝鮮人虐殺事件》片山通夫

9月に入ると関東大震災時の混乱で相当数の朝鮮人が殺されたというニュースが各紙から流れる。東京都知事は今年も追悼文を出すことはなかった。その理由は既に新聞等でご存じだろうから、ここでは書かない。ただはじめて埼玉県知事からの追悼文が届き代読された。同じ日本の敗戦時、当時の樺太(現サハリン)で同じような虐殺事件が起こった。これは筆者がサハリンへ取材に通いだした頃に知った。事件の概略は下記の通りである。

瑞穂(チェプラノオ)村朝鮮人虐殺事件

瑞穂事件のKGB調書

瑞穂村は真岡(現ホルムスク)と言う日本海側の町から豊原(現ユジノサハリンスク)へ向かった瑞穂村と言うところで起こった事件を指す。日本が降伏の意志を昭和天皇の放送で世界に伝えた8月15日以降もソ連は樺太(現サハリン)との国境(北緯50度線)を越えて戦闘が続いていた。そんな時(8月20日から8月23日)に、瑞穂村では27人の朝鮮人が惨殺された事件が起っていた。ロシア側の資料によると、日本人たちは、呼び出した一人の朝鮮人をまず惨殺し、さらに朝鮮人を皆殺しにする計画を立て、翌日、三人を殺害し、ますます凶暴になって、朝鮮人が住む住居を襲った。日本人の細川博が後のソ連軍の裁判で行った証言記録によると、逃げて出てきた朝鮮人をサーベルでたたき切り、仲間とともに女子供・高齢者も同じように殺した。こうして朝鮮人27人が虐殺された。

事件の被告、細川博の自署

惨殺した理由は当時樺太に住む北方少数民族、アイヌ、ウィルタ、ニヴフなどがソ連との国境、北緯50度線を自由に行き来していたのを利用して、日本軍が彼らをスパイに起用し諜報活動に利用した。ロシア人にとっては日本人もとの見分けもつきにくいということもあり、スターリンは1937年になると、沿海州と北樺太の朝鮮人を中央アジアに強制移住させた(高麗人)。一方樺太の瑞穂村などでは日本人と朝鮮人が混在して生活を営んでいた。

そんな状況の中で瑞穂村の日本人は「朝鮮人はソ連のスパイではないかと疑い、また暴動を起こすのではないか」と疑心暗鬼になていた。この辺りから噂が噂を呼び、夜中に懐中電灯で沖にいるソ連の軍船に合図を送っているとか、ひそかに武器を隠し持っているという噂がまことしやかに日本人の間で話されだした。これは関東大震災の後の朝鮮人虐殺と同じ構図だった。もともと朝鮮人たちは日本人のもとで小作など、劣悪な条件で搾取される生活をしていたので、日本が戦争に負けると、日本人にとってはかなり警戒する相手だった。
日本人の緊張の糸が切れた1945年8月20日から8月23日にかけて日本人の在郷軍人や青年団は武装して朝鮮人に襲いかかった。そして子供や女性を含む27人が犠牲になった。そして樺太はソ連が統治しだして、この事件も捜査されてウラジオストックで軍事裁判が開かれた。日本人の被告たちは捜査官の捜査報告や被告人の陳述などから事件の全容が明らかになり、7人の被告に死刑の判決が下された。

そのうちのひとりの日本人被告の裁判陳述を入手したサハリンの記者から筆者は 分厚い資料を見て説明を受けた。写真は被告人の細川博の陳述書と自書があった。(写真)
日本で起こった関東大震災時の朝鮮人虐殺と時代も違うが、日本の官憲がソ連の官憲ほど
詳細に捜査していればと残念に思う。それは最近見た映画「福田村事件」に通ずる。

参考
朝鮮人犠牲者追悼式 知事が初の追悼文
NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240904/k10014572051000.html

映画福田村事件 公式サイト
https://www.fukudamura1923.jp/