Lapiz2024秋号Vol.51《巻頭言》井上脩身編集長

『知覧からの手紙』の表紙

【LapizOnline】購入した本をつんどくにしたまま、読んでないことすら忘れてしまうことは二度や三度ではなく、何かの拍子に見つけてハッと恥じ入ることがあります。『知覧からの手紙』はそんな本の一つでした。水口文乃さんというフリー記者が著したもので、2007年、新潮社から刊行されています。2008年頃、大阪の書店で「知覧」の文字が目に触れ、買い求めた記憶があります。当時、私は新聞社の外郭団体に勤務していて、忙しくしていました。16年間も放置していたのです。「ごめんなさい」と言いながら、本を開きました。

 水口さんが2006年、当時84歳だった伊達千恵子さんから聞きとり、200ページの本にまとめたもの。「私」である千恵子さんが執筆したような形で綴っています。

「昭和20年4月12日、彼が大空に飛び立ったあの日以来、私は彼の思い出の欠片を少しずつ集め始めました」から本ははじまります。彼とは陸軍特別攻撃隊(特攻隊)第20振武隊の穴沢利夫少尉。千恵子さんの婚約者でした。

(以下、本文を引用するくだりでは敬称略)

 千恵子は東京都心の女学校卒業後の1941年、文部省図書館講習所に入学。夏休み中、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大)の図書館に実習に行きました。玄関の前でキャッチボールをする利夫を目にしたのが二人の出会いの始まりです。利夫は福島県の出身。「陸軍の特別操縦見習士官の試験を受ける」と告げる利夫にひかれた千恵子は、この人と向き合おうと決意します。やがて利夫から「陸鷲(特別操縦見習士官)に合格しました。僕が唯一最愛の女性として選んだのがあなたでなかったら、こんなにも安らかな気持ちでゆくことはなかったでしょう」と書いた手紙が届きました。以降、二人は手紙のやりとりを続けるのです。

出会ったころの千恵子さん(左上)と利夫さん(右下)(『知覧からの手紙』より)

 1943年、利夫は入隊。千恵子の誕生日に「遠くおもふ二本の梅の薫る日を はるかに誕生日に祝す」と千恵子にハガキ。千恵子は「咲き薫る時こそあらめきみとわれ 心の花をあだに散らさじ」と返します。その後、利夫からの手紙の文末に「前途の多幸を希いつつ、″さよなら″を告げる」とあり、うろたえた千恵子が「現身(うつしみ)はいかに相離れようとも、心はいつも高く澄んだ大空をあなたとともに駆けめぐります」と返事しました。

 千恵子が利夫にマフラーを贈ると、利夫は「神聖な帽子や剣にはあまりなりたくありませんが、あなたのマフラーにならなりたい」と書き、自らの写真を同封しました。一方、陸軍少尉になった利夫は「おそらく、近い中に、還らざる任務につく」と書きます。1945年2月、利夫は手紙に、「縦横に愛機を駆り得る大空の広さを喜びます」としたためます。しばらく後の手紙には「粉と砕く身にはあれどもわが魂は 天翔(か)けりつつみ国まもらむ」の一句。出撃が間近に迫っていると察した千恵子は「なりゆきのすべてを神にまかせ、静かにその時をまちましょう」と返信しました。

3月19日、利夫の叔父が千恵子のところに結婚の申し込みにやってきました。これで利夫さんの元に行くことができると安心した千恵子は、「一夜でもよい、妻として見送りたい」と、利夫がいるという宮崎県の都城に行きます。基地でたずねると、利夫の部隊は徳之島に向かったとのこと。千恵子は利夫に会えずじまいでした。

 千恵子は都城から帰って半月くらい後、両親がいる福岡県南部の村に疎開。途中、小倉駅のホームにはられているポスターで、利夫と出会うことになりました。ポスターは「神鷲に続け」と特攻隊員を募るもので、そこに出撃を控えた利夫の横顔写真が刷り込まれていたのです。その横顔は、特攻隊員としての神々しさが感じられる半面、何とも言えぬ寂しさが漂っている、と千恵子は感じました。

 1973年、千恵子は利夫の実家から利夫の日記を借りることができました。日記には手紙には記されてないことが綴られていました。

利夫の叔父がやって来た日から8日後の1945年3月27日、利夫は特攻の出撃地、知覧に移動。千恵子が都城に着いたとき、利夫は「目と鼻の先」の知覧にいたのです。4月11日の利夫の日記には「明12日と決定す」とあり、「ふるさとに今宵かぎりの命ぞと 知らでや人のわれを待つらん」と辞世の句をしたためています。

実は、利夫が出撃して4日後の1945年4月16日、千恵子にあてた遺書が千恵子の元に届いていました。「二人で力を合わせたが、ついに実を結ばなかった」と書き「婚約をしてあった男性として、散って行く男子として、あなたにすこし言って往きたい」として、「穴沢は現実の世界にはもう存在しない」としたためています。ところが日記には千恵子のことは触れていません。日記は、古里の父母を意識して書かれたのかもしれません。

敗戦から10年間、千恵子は利夫の夢をよく見ました。日比谷の映画館のロビーで「やあ、待たせたね」と笑顔でやってくる利夫。「死んだ人も口をきくんだ」と思うと現実に戻り、目が覚める千恵子。「千恵子、会いたい、話したい、無性に」と言った利夫への思慕がいっそう募るのでした。

 千恵子さんは戦争が終わって10年後に再婚しました。夫が1973年に病死した後、知覧を訪ねました。三角兵舎など特攻基地の名残を見て回って、彼ら(特攻隊員)は皆、どれほど生きたかったのだろうと思うと、怒りと悲しみとやり切れない思いが極まって、いつのまにか涙があふれ出ていました。「弾の代わりに敵に突っ込んで生きて帰ってくるな」という特攻作戦は「あってはならない作戦」と千恵子さんは思うのです。

特攻隊の出撃にさいし、多くの女学生が見送りに駆り出されました。知覧特攻平和記念館では今年3月26日から7月18日まで、企画展として「女学生が見た戦争――知覧高女生と特攻隊員」を開催。特攻隊員のために奉仕活動をした様子などが紹介されました。その特攻隊員のほとんどは出撃し、散っていきました。千恵子さん同様、戦後になって「特攻作戦は間違いだった」とおもった女学生はすくなくないでしょう。

 特攻隊員には朝鮮人もいました。「びえんと」では、″アリラン特攻隊″を取り上げました。