【LapizOnline】沖縄島の西方約20~40kmに浮かぶ慶良間(けらま)列島の西側の島々は座間味村(ざまみそん)に属し、座間味諸島とも呼ばれます。その中でも西側に位置するのが無人の屋嘉比島(やかびじま)で、学生時代に探検部だった私は1973(昭和43)年の夏、「無人島居住実験」と称して男二人で1ヵ月間テント生活をした島です。第二次世界大戦までは銅山として栄え、沖縄戦では米軍が上陸して凄惨な強制集団死(集団自決)事件が起きた島ですが、当時の私はそのことを知らず、あとになって恥ずかしい思いをしました。
屋嘉比島は明治の初めに琉球藩主によって銅鉱山開発が始まってから一時事業中断の時期を挟んで第二次世界大戦まで高品質な銅を産出。島には坑員住宅が並んでいました。1940(同15)年には座間味高等尋常小学校の分教場が開かれ、人口は2,384人を記録しています(国勢調査)。
第二次世界大戦における沖縄地上戦は慶良間列島から始まりました。米軍は慶良間列島を沖縄島を攻撃する拠点とするべく慶良間の島々に大規模な空襲や艦砲射撃を加えたあと上陸し、占領しました。1945(同20)年3月26日、午前8時過ぎの阿嘉島を皮切りに慶留間島(げるまじま)、座間味島、外地島(ふかじしま)、屋嘉比島の順に次々に上陸したのです。
屋嘉比島では26日13時41分に米軍が上陸し、住民は山間や坑道を逃げ惑いました。島の慶良鉱業所では「玉砕者名簿」が作られ、従業員とその家族によって集団死が行われようとしていたようです。実際には実行されませんでしたが、一部の家族がダイナマイトを爆発させ集団死に至りました。資料によると「2家族」「約10人」が亡くなったとあります。
そのほか、座間味島や慶留間島、渡嘉敷島(とかしきじま)でも凄惨な強制集団死や日本兵による住民虐殺が起きました。強制集団死の犠牲者数は資料によって異なり、座間味島では「234人」「135人」「177人」、慶留間島では「53人」「数十人」、渡嘉敷島では「329人」「330人」などの数字が見られます。
強制集団死は決して住民の意思による“自決”ではありません。軍と住民は生死を共にするという「軍民共生共死」の思想を押しつけられ、日本軍に見捨てられた住民が米軍の激しい攻撃を前に自死を余儀なくされたのです。カミソリやネコイラズ、手榴弾や縄を使って自分の命や家族の命を奪った悲惨なものでした。日本軍の誘導・強制により住民が死に追い込まれたというのが実態なのです。
座間味島には軍人民間人あわせ約1,200人の犠牲者を慰霊する平和の塔と記念碑が建てられ、5年ごとに座間味村主催の慰霊祭が執り行われています(2020年は新型コロナ蔓延のため中止し、翌年実施)。
屋嘉比島は、現在は無人で神事の際に座間味村民が訪れるだけですが、本来は最高地点に屋嘉比御嶽を持つ信仰の島です。島には国の天然記念物・ケラマジカやキノボリトカゲ、オカヤドカリ、アカマタ(ナミヘビ科)などが生息し、平和に暮らしています。