連載コラム・日本の島できごと事典 その144《クナシリ・メナシの戦い》渡辺幸重

ノッカマップで行われるイチャルパの様子(根室市公式サイトより

【LapizOnline】北方四島の一つ、国後島(くなしりとう)と根室海峡を挟んで相対する北海道・知床半島の東南側の目梨(めなし)地方で1789(寛政元)年、アイヌ民族が松前藩に対して蜂起する事件「クナシリ・メナシ(国後・目梨)の戦い」が起きました。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」「寛政蝦夷の乱」「国後騒動」「寛政元年蝦夷騒擾」などと称され,近代以降は「寛政元年の蝦夷騒乱」「寛政の乱」「クナシリ・メナシの乱」「クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起」などとも呼ばれます。 北方四島の一つ、国後島(くなしりとう)と根室海峡を挟んで相対する北海道・知床半島の東南側の目梨(めなし)地方で1789(寛政元)年、アイヌ民族が松前藩に対して蜂起する事件「クナシリ・メナシ(国後・目梨)の戦い」が起きました。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」「寛政蝦夷の乱」「国後騒動」「寛政元年蝦夷騒擾」などと称され,近代以降は「寛政元年の蝦夷騒乱」「寛政の乱」「クナシリ・メナシの乱」「クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起」などとも呼ばれます。蜂起に参加したアイヌはクナシリ41人、メナシ89人で、和人(日本人)71人が死亡しました。事件を鎮圧した松前藩によって蜂起参加者のうち37人のアイヌが処刑されました。クナシリ・メナシの戦いはアイヌ民族の和人に対する近世最後の武力闘争といわれています。

1754(宝暦4)年、クナシリに藩主の交易場として商場(あきないば)が設置され、現地のアイヌは和人と交易する一方、18世紀以降に千島列島を南下し始めたロシア人とも交易していました。アイヌ側からは獣皮やサケ、海産物など、和人側からは鉄製品や漆器、米、衣類などが提供されたようです。1774(安永3)年以降、商場は飛?屋久兵衛の請負となりましたが、飛?屋はアイヌを漁場の労働者として酷使するなど圧迫を加えました。ある資料には「毒殺などの脅迫で魚肥製造に駆り立て、越冬食糧の準備の暇も与えないほどに使役し、報酬もきわめて少なく、アイヌの生活は飢餓に瀕していた」とあります。アイヌ女性に対する乱暴な行為も目立ったそうです。

このような中でアイヌの不満が爆発し1789(寛政元)年5月、クナシリのアイヌが蜂起して商場の支配人や番人、出稼漁夫などを殺害しました。さらに対岸のメナシ地方に渡り、そこのアイヌと合流して各漁場を相次いで襲撃していったのです。この騒動は松前藩との関係を重視するアイヌの首長たちに説得され、蜂起したアイヌたちは同年7月に降伏しました。

1912(明治45)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で「横死七十一人之墓」という文字が彫られた石が砂の中から見つかりました。刻まれた文章からこの71人はクナシリ・メナシの戦いの和人側の犠牲者だということがわかりました。1812(文化9)年に造られたとあり、発見地の墓地入口に建立されていましたが、1968(昭和43)年に国後島を望む納沙布岬の望郷の岬公園に移設されました。「寛政の蜂起和人殉難墓碑」として根室市指定有形文化財に指定されています。また、1974(同49)年からはアイヌの人たちが中心となって毎年9月末に、アイヌ37人を含むクナシリ・メナシの戦いの犠牲者108人を供養して「イチャルパ」(アイヌ語で供養祭の意)という祭事を催しています。場所は根室半島オホーツク海側のノッカマップというところで、ここは松前藩がアイヌの人々を集め蜂起の指導者37人を処刑したところです。