Webサハリン物語《episode#2 なぜ樺太に朝鮮人が?》片山通夫

戦前の北緯50度線上の日ソ国境標識(写真は日本側)

【609studio】ボクはまったくサハリンに知り合いがいなかったが、韓国・大邱(テグ)に中ソ離散家族会と言う組織を知った。そこで紹介して貰って離散家族会の李会長を訪ねた。どこの馬の骨かもわからないボクを李さんは樺太(現サハリン)にいる彼らの留守家族を何人も紹介してくれた。留守家族とは強制連行で夫を父を労働力として樺太へ連れて行かれ、韓国に残された人々を指す言葉だ。樺太には最盛期では6万人もの朝鮮人がいたという調査を戦後北海道新聞が行った記録があった。

サハリンへ渡る前のことである。ボクは韓国のテグでひとりの韓国人の女性を知った。勿論李会長の紹介だ。彼女の夫はサハリンへ強制的に連れてゆかれたという。このepisodeは後で詳しく書くことにしたい。当時1941年(昭和16)年12月には日本はアメリカとイギリスに戦争を仕掛けた。太平洋戦争である。そして日本は太平洋とその周辺で戦線を拡大し、アメリカ・イギリス・中国・ソ連などの連合国と戦った。同時に国内では兵員はもちろん戦略物資の不足が急激に目立ってきた。戦争を遂行する上での燃料をはじめ金属などである。朝鮮半島は既に日本の植民地となっていた。兵員を戦地へ送る為には産業を維持する人員が必要だ。ここで侵略した中国や台湾、朝鮮と言った植民地から、人員を補充せざるを得なかった。そんな社会の要求から朝鮮半島の南部から若者が日本へそして樺太へ渡っていった。この渡航が問題となっている。強制的に連れ去られた人もいれば、朝鮮半島では生活が成り立たないからと言う理由で、自発的に職を求めた人もいた。ただ歴史をゆがめて「強制連行はなかった」と言う人の論にはボクは組しない。そうでない人々も多くサハリンにもいたからである。

註:サハリン韓人⇔韓国とソ連が国交を結んだのは1990年のこと。1988年に開催されたソウルオリンピックにソ連も参加したことが大きい。以後、サハリンに住む朝鮮人は自らをこう呼んだ。
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