Lapizstory《出雲の神々そして鬼が行く道006》片山通夫

【LapizOnline】鬼が行く道

鬼たちが山中深く棲んでいる地域が丹波の国である。丹波は福知山(京都府下)や篠山(兵庫県下)にまたがる地域をいう。この地域に鬼が出てくる記録は、平安時代にさかのぼる。陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)が活躍した頃である。陰陽師は平安の頃、人が理解できなかった世の中の事象を解決した神に近い存在だった。有名な陰陽師に安倍晴明(あべ の せいめい / はるあき / はるあきら / はれあきら、921年2月21日- 1005年10月31日)がいた。彼の出自には不思議な伝説がある。当時、大阪・阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいた。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまった。その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来て名前は葛乃葉と名乗った。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けた。狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として活躍した。

「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
これは安部晴明の母・葛乃葉(くずのは)の歌である。

これとは別に京の都には夜な夜な出没する鬼どもがいた。有名な鬼に第66代一条天皇(在位:986年8月1日- 1011年7月16日)の御代、都は天変地変に見舞われ、女たちが行方知れずになる事件が多発した。陰陽師・安倍晴明に占わせると、京都の西、大江山に巣くう鬼たちの仕業だと判明。そこで源頼光らの武者が集められ、討伐に向かう。神仏の助力を得、策略で酒に酔わせ、鬼たちを退治するが、その鬼の頭目だったのが、身の丈約3メートル、大酒をあおっては人をさらい、その肉を喰らっていたと言われる酒呑童子だった。その酒呑童子を退治して切り落とした首を埋めたと今に伝わる鬼塚は、京都市内と亀岡の間の老いの坂峠にある。

また有名な小説で芥川龍之介の「羅生門」がある。「飢饉や辻風(竜巻)などの天変地異が打ち続き、都は衰微していた。ある暮れ方、荒廃した羅生門の下で若い下人が途方に暮れていた」という設定で平安時代の荒廃した羅生門とともに人間の葛藤を描いた作品である。このように荒廃した平安時代は決して紫式部や和泉式部が描く煌びやかな世界ではなかった。都の三方には亡くなった人を葬る場所があり、遺体はそのまま化野(あだしの)や鳥辺野(とりべの)などにうち捨てられていたと言う。ボクが考えるにこのような世相では鬼が生まれるのも無理はないと思う。妖しい逸話が多すぎるのだ。例えば平氏の本拠となった六波羅近くには、小野篁(おののたかむら)と言う公卿がいた。平安時代初期の人物である。篁の孫に美人で有名な小野小町がいる。その篁にはあの世とこの世を行き来する能力があり、昼は宮中にて夜は地獄の閻魔法王に使えて仕事をしていたと言われる。京都・東山区松原大和大路東にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)という寺院の庭にその篁が地獄とこの世を行き来した井戸が現在もある。

またこの六道珍皇寺の近くに450年以上続くという日本一歴史ある「みなとや幽霊子育飴」本舗がある。その由来は次のとおりである。

~母の深い愛情の物語~
命をつないだ飴の由来 今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て
土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜なよな飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に、高吊な僧になる。
寛文六年三月十五日、六十八歳にて遷化し給う。されば此の家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と唱え盛んに売り広め、果ては薬飴とまでいわるゝに至る。

この話だけを見るとまるで怪談である。怪談と言えば京都は、いや平安時代の京都と言い直しておこう。平安時代の京都は魑魅魍魎が跋扈跳梁する怪談の宝庫だった。そもそも小野篁も冥府で閻魔の補佐官だったというし、夜中に泣く子供のために飴を買いに来る母親も羅生門の老婆もみんなみんな妖しの存在だ。その原因、つまり妖しの影が跋扈するには、それだけの理由があると思うのだ。
芥川の老婆もおそらく丹波の山々に棲む山賊もみんなホームレスすれすれの生活をしていた。亡くなった人の衣服はおろか髪の毛までも奪うような生活。ふと上を見れば紫式部が著したような光源氏の王朝貴族の世界。
そりゃあ鬼も通う。