【LapizOnlin】私が小学生だった頃、担任の先生から「屋久島には屋久島憲法という立派なものがある」と聞き、内容がわからないままに誇り高い気持ちがしたものです。あとになって知ったのですが、それは日本国憲法と同じような憲法ではありませんでした。正式名称は「屋久島国有林経営の大綱」と言い、1921(大正10)年に農商務省鹿児島大林区によって発表された山林管理と利用に関する基本的な決まりでした。島の山林のほとんどを国有林にする一方で一部を地元で利用することを許すという内容ですが、その“屋久島憲法”ができるまでには入会山林(共有林)を強制的に国有林にした明治政府に対する地元の闘いがありました。
明治政府は1873年(明治6年)に地租改正法の制定、地租改正条例の公布を行い、翌年から租税制度改革を始めました。その一環として定められた「山林原野等官民区分処分法」により1876(同9)年からは入会地とされてきた土地や森林の多くを国有林とする官民有区分事業を実施したのです。
当時、入会山林に関して「国有にすると税金はかからないが今まで通り利用はできる」とだまされて国有化を認めた例が全国各地であり、紛争に発展しました。それまでと同じように利用できると言われた山林が国有化されると山に入ることが厳しく制限された結果、国有化反対や共有林に戻す運動が多く起きたのです。
特に屋久島では薩摩藩時代から年貢を屋久杉で納めるなど屋久杉の伐採権が島民にあったので山林(村持ち支配林)の国有化に強く反発しました。そこで当時の下屋久村・上屋久村は1899(同 32) 年公布の「国有森林原野下げ戻し法」に基づき、1900(同33)年に国有林下げ戻しを申請しましたが、4年後に却下されたので両村は1904 (同 37)年、別々に地租改正によって国有林にされた山林の下げ戻しを求める行政訴訟を起こしました。訴訟は16年続き、1920(大正9)年6月の大審院判決で国側の「島民は屋久杉を利用してきたが所有してはいない」という主張が認められ、島民側の敗訴となりました。
判決が出ても騒ぎは収まらず、島内では判決を受け入れ条件闘争に切り替えるべきだとする調印派とあくまでも当初の主張を貫くべきだという反調印派の対立が激化し、島民による盗伐も横行するようになりました。鹿児島大林区がこの騒動を収めるべく1921 (大正10)年5月に発したのが、島民の山林利用を一部認める「屋久島国有林経営の大綱」(屋久島憲法)だったのです。
屋久島憲法では、 約4万2,000haの国有林のうち集落に近い約7,000haを委託林(特別作業林)として各集落が薪炭材などに利用することが認められました。そのほか、国有林となった奥山の伐採作業には島民を優先して雇用する、鳥もちの原料となるヤマグルマを島民に供与する、島内の集落を結ぶ道路を林道整備の名目で整備するなども決められています。これは敗訴となった島民に対する国の融和的・恩恵的措置でした。これは、江戸時代以来の伝統である村持ち支配林を背景とした林野入会権を国が島民に部分的に認めたものといわれています。
2年後の1924(大正13)年に策定された第1次屋久島国有林施行計画では、屋久島の国有林は、第一種林・第二種林・第三種林に分類されました。第一種林は学術参考保護林、第二種林は国が開発する国有林、第三種林が委託林で、第二次世界大戦後になると委託林は薪炭共用林という名称になりました。
学術参考保護林はその後国の天然記念物、国立公園、世界自然遺産につながっており、屋久杉を含む原生林保護の基盤を作りました。