連載コラム・日本の島できごと事典 その138《漁業権紛争事件》渡辺幸重

久六島(灯台があるのは上の島:「青森県・白神山地の地質、岩石、化石、地形、自然」サイトより)

漁業権や水利権は生活や産業にとって大事なものだけに、その権利をめぐる争いは昔から激しいものがありました。特に資源が豊富な漁場の漁業権の場合は権利関係が複雑に絡み合い、紛争が長期化したようです。その代表的な例に、東北地方北部の日本海に浮かぶ小さな岩礁群・久六島周辺の漁業権をめぐる争いがあり、明治時代に大きな問題になったあと第二次世界大戦後の1953(昭和28)年になってやっと決着しました。紛争解決の過程で地方自治法の一部改正や漁業法の特例法制定といった立法措置まで取られ、国を巻き込む大きな事件でした。

久六島は北から下(しも)の島・上(かみ)の島・ジブの島の3島を中心に小さな岩礁が並ぶ岩礁群で、最も大きな上の島でも面積は0.001?しかありません。周辺海域は魚影が濃いもののかつては難破する船が多く、漁に出る漁師はほとんどいなかったようですが、明治時代に漁場が開発され、秋田県と青森県から出漁して久六島の周辺海域でウミタナゴやクロマグロ、マダイ、ブリ、ホッケ、サザエ、アワビなどが豊富に獲れるようになりました。

漁場開発は1890(明治23)年、福島県出身で秋田県能代で水産業を営んでいた新妻助左衛門の久六島探検によって始まりました。新妻は新漁法と新漁具によって漁獲を挙げ、そのことが秋田、青森両県の漁民に伝わりました。
1891(同23)年、青森県は久六島を青森県の地籍として官報に告示し、「久六島は岩礁で島嶼とすべき地盤を有しないから慣行通り入会漁場とすべき」と主張する秋田県との間で帰属をめぐる紛争に発展しました。地籍については翌年、「久六島は潮の干満に水没するもので区域編入の対象とならない」という内務・農商務大臣の訓令によって編入手続が取り消されています。漁業権については青森県がいったん単独の権利を得たものの抗議を受けて取り消されました。以後、久六島はどこの都道府県にも属さないという状態が続き、両県から国への陳情が繰り返されることとなりました。

第二次世界大戦後、久六島の帰属について秋田県は「両県による共有」、青森県は「青森県単独の所有」を主張しましたが、1951(昭和26)年になると10月に青森県議会が久六島を同県西津軽郡深浦町に編入することを議決、これに反発した秋田県は11月に久六島を同県山本郡岩館村に編入して対立が深まりました。国は両県の処分とも無効と通知しました。
問題が解決したのは1953(同28)年のことで、3月に国が閣議了解で久六島の青森県への帰属を決め、7月に両県知事の間で「久六島問題の解決に関する覚書」が調印されました。その結果、久六島の帰属は青森県となり、周辺の漁業権は青森県と秋田県の両県に認められることになりました。
解決に先だつ1952(同27)年8月に地方自治法が改正されて久六島問題の解決につながる規定が加えられ、覚書調印後の1953(同28)年8月には「久六島周辺における漁業についての漁業法の特例に関する法律」が公布(即日施行)されました。同年10月15日、地方自治法の新しい規定によって「久六島を都道府県の区域に編入する処分」が告示され、同日から久六島は正式に青森県の区域に編入されました。