【LapizOnline】松尾芭蕉の奥の細道と言う有名な作品がある。言うまでもなく、松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師だ。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を称し、次いで桃青、そして最後には芭蕉と改めた。北村季吟門下。その芭蕉が表したのが奥の細道と言う句集。芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文である。全行程約2400キロメートル(600里)、日数約150日間で1691年(元禄4年)に江戸に帰った。越後・出雲崎から佐渡を望み、越中・倶利伽羅峠(くりからとうげ)を経て加賀・金沢そして越前・永平寺や敦賀を後に近江の国、木ノ本宿に至った。ついでに言うと、木之本から関ケ原を越えて岐阜・大垣に着き奥の細道の旅は終わった。残念ながらこの旅で芭蕉は敦賀から大垣に直行し、北国街道・木之本宿には泊まらなかった様である。
「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」 越後・出雲崎
「一家に 遊女もねたり 萩と月」 親知らずを越えて市振の関
「わせの香や 分入右は 有磯海」 越中・那古の浦
「あかあかと 日は難面も 秋の風」 加賀・金沢
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」 加賀・片山津
「月清し 遊行のもてる 砂の上」敦賀
「名月や 北国日和 定めなき」 敦賀
https://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-67.html
どちらかと言うと「琵琶湖好き」の芭蕉が、近江塩津や余呉、木之本をすっ飛ばして関ケ原へ「脇街道」を急ぐ姿は想像しにくい。若狭・敦賀から久々坂峠(くぐさかとうげ、標高:400m、別名:刀根越え、倉坂峠)を越えて塩津街道から余呉に至り、余呉から木之本に至る間には賤ケ岳がそびえ七本槍で有名な羽柴秀吉と柴田勝家の古戦場もあり、それらを横目に木之本、北国脇往還を経て美濃の国・関ヶ原から大垣に入るというのはいささか乱暴な推察だと思う。しかし奥の細道には、余呉、木之本、小谷、伊吹、関ケ原などの地名は出てこない。
芭蕉の同行者に河合曽良がいた。曽良は、この道中の記録を「曽良旅日記」に著している。「曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に……」(「おくのほそ道」 山中)とあり、この辺りの旅に曽良は同行していなかった。
芭蕉を案内したのは大津の露通という門下生で敦賀を発って5日後の8月21日には岐阜・大垣に到着したと言う。
鳥どもも寝入つてゐるか余吾(よご)の海 露通
芭蕉は曽良とは大垣で再会している。そして大垣が奥の細道の終点だった。
註:北国脇往還
北国街道木之本宿と中山道関ヶ原宿を結ぶ。脇道であるが東海・東国と北陸を結ぶショートカット路であるだけに北国街道よりも多くの利用があったともいう。道筋は国道三六五号に並行するが、部分的には伊吹山地より通ったらしい。木之本を出ると井之口・馬上(現高月町)、伊部(現湖北町)、八島・野・今庄(現同郡浅井町)、小田(現坂田郡山東町)、春照・藤川(現同郡伊吹町)を経て関ヶ原に至る。宿場は伊部・春照・藤川の三宿で、伊部・春照には本陣が置かれ、藤川宿でも臨時の際に本陣となる家があった。