びえんと《大災害時代の安全神話》Lapiz編集長 井上脩身

五百旗頭真氏(ウィキベテアより)

【LapizOnline】能登半島地震で幕を開けた2024年の1月17日。神戸市中央区の東遊園地で「阪神淡路大震災(以下、阪神大震災)1・17つどいが開かれ、1995年の大地震によって亡くなった6434人の霊を慰めた。早朝から会場にやってきた人たちの多くは、29年前の震度7の激しい揺れに見舞われるまで「大きな地震はこない」と思いこんでいた。阪神大震災はその安全神話をうち砕いたのであった。実は私も「関西に大地震はない」と信じて疑わなかった一人である。恥ずかしいことに、阪神大震災の約20年前、六甲山周辺で直下型地震が発生するおそれがあるとの警戒信号が出されていたことを最近になって知った。能登半島では17年前に震度6に地震が起きた。これほどわかりやすいシグナルはない。にもかかわらず住民たちは「まさかこんな大きな地震が来るとは」と信じられないおもいだったという。警戒警報をも否定する安全神話。それは「安全でありたい」という心理がつくりあげる″安全妄想″に過ぎないのである。

関東大震災で焼け野原になった東京の街(ウィキベテアより)

「創造的復興」提唱の五百旗頭氏

警戒信号は政治学者、五百旗頭真さんの近著『大災害の時代――三大震災から考える』(岩波書店)に取り上げられた。五百旗頭さんは3月6日、急性大動脈解離のため80歳で亡くなった。その8日後の毎日新聞の「激動の世界を読む」のコーナーに、国分良成・前防衛大学校校長による五百旗頭さんへの追悼文が掲載された。五百旗頭さんは2006年から2012年まで防衛大学校校長をしており、先輩を偲んで綴ったのだ。そのなかで国分さんは「先生が阪神大震災、東日本大震災、熊本地震と続く日本の国難に強いリーダーシップを発揮したことを心に刻むべきである。最近では、災害復興の専門家とさえ思われている」と記し、「先生が最後に上梓した(本)」として『大災害の時代』を挙げた。
私は8、9年前、宝塚市で五百旗頭さんの講演を聴いたことがある。五百旗頭さんは、宝塚歌劇が好きだったなどと述べたうえで、阪神大震災を例に、震災対策を語った。一方、五百旗頭さんは毎日新聞に災害や政治に関する論評を定期的に投稿していて、私は愛読していた。という次第で、『大災害の時代』を買い求めたのであった。
同書の副題にある「三大震災」は関東大震災、阪神大震災、東日本大震災を指す。五百旗頭さんはこれらの震災の発生直後の首長の行動や救援活動について綿密に調査。防衛大学校校長だっただけに、自衛隊の出動、救援活動については熱っぽく記述している。だが、それ以上に筆に力を込めたのはあるべき復興とは何かである。「創造的復興」という概念を構築し、単に元のまちに戻すのでなく、災害に強い未来のまちづくりを提唱。とくに津波でまちが根こそぎ流された東日本大震災の被災地については、明治や昭和の津浪で高台に移転したまちが被害を免れた点を重視し、防潮堤で津波を防ぐとともに高台でのまちづくりを力説した。防潮堤と高台の2段構えで津波から守ろうというのである。
私は防潮堤を築き、まちを高台に移すという五百旗頭さんの考えに、決して賛成はしていない。リアス式海岸が延々とつづく三陸の最大の特徴は海と陸とのせめぎ合いのような地形だ。防潮堤という万里の長城を海岸に築くと、幅の狭い入り江と槍のような岬とのせめぎあいの魅力が失せてしまう。漁師など海や港で働く人たちが海から離れて高台で暮らすと「猟師魂」を失うことになりはしないか。とはいえ、三陸地方は過去の例からみれば、数十年後、やはり大きな津波に襲われるだろう。そこに生きる人たちの人命を守ることが最優先課題であることはいうまでもない。美しい自然環境を維持することと人命尊重との接点はどこにあるのか。私はこの本を読み進むにつれ、解答を見いだせなくなってしまった。

行政のトップも「大地震ない」

『大災害の時代』の表紙

前項で述べた創造的復興が『大災害の時代』の最大の眼目である。だが、実に以外だったのは冒頭に述べた警戒信号の記述であった。
「西宮市の夙川あたりで生まれ育ち、西側に(六甲山系の)ゴロゴロ岳(565メートル)の山脈がそびえていたという五百旗頭さんは、阪神大震災を引き起こした断層について「主断層がその山脈の西方の奥池を走っていたとすれば、はるか南東の西宮市中心部がなぜあれほど壊滅的打撃を受けなければならなかったか」と、地元の地理に精通している人ならではの疑問を呈す。私は年に7、8回六甲に登る。比較的六甲周辺の地理を知っている一人なので、五百旗頭さんの素人疑問がうなずける。五百旗頭さんは「多くの専門家は、きわめて特異な地形的・地理的条件と地震の指向性が合成した現象としてとらえている」という。
海からただちに標高1000メートルに近い山がそそり立つ六甲山系。その間の狭い空間に大都市が広がる極めて特異な地形だ。1938年に大水害が起きているが、地震学的にも何が起こるかわからない所なのかもしれない。ところが、「『関西には風水害は多いが、地震はない』といった神話が流通し、それが大地震の悲惨を際立たせた」と五百旗頭さんはいい、「なぜそのような安全神話の集団幻想に関西に住む一般人が陥ったのか、不思議ではある」と首をかしげるのである。
五百旗頭さんはさらに「それよりもはるかに不思議なのが、兵庫県や神戸市のトップと防災担当者がこぞってこの地には大地震がないと本気で信じていたことである」と書いたうえで、1974年に神戸市は地震学者のグループに、神戸直下型地震の可能性について検討を依頼し、震度7の地震が来るとの答申を得ていたと指摘。その答申を掲載した神戸新聞の1面トップの記事を取り上げた。
私は早速神戸新聞社に電話し,1974年6月26日付夕刊1面のコピーを送ってもらった。記事は「神戸にも直下型地震の恐れ」と横見出しをとり、縦に「大坂市大表層地質研究会が指摘」「臨海部に破砕帯?」「地震帯 市街へ延長も推定」と3本見出しをたてている。この特段の扱いから、神戸新聞が答申を大ニュースととらえていたことがうかがえる。

直下型地震警告の報告書

直下型地震のおそれを報じた神戸新聞の1面

以下は神戸新聞の記事の全文である(漢数字を洋数字に変更)。
神戸市の依頼で同市の地震と地盤調査を行っていた大阪市立大理学部表層地質研究会(代表・笠間太郎理学部助教授)は26日、報告書をまとめた。それによると、六甲山周辺でも都市直下型の大地震が発生する恐れがあり、臨海部には地震にもろい断層破砕帯が推定される――という。神戸市はこの報告書をもとに総合的な対策の検討を始めた。
 この調査は(昭和)47年から行われ①微小地震観測結果からみた震源調査②アンケートによる市街地の震度調査③ボーリングによる地震調査――の3項目。同助教授らの研究グループに大阪市大藤田和夫研究室、京大防災研究所が協力した。
 報告書のうち47年8月から48年2月までの7カ月にわたり実施された微小地震観測によると、六甲山周辺には、山崎断層沿いの地震活動帯の延長部と淀川地震帯の延長部の交点に当たることがわかった。この観測は、神戸周辺の4地点(宝塚、船坂、三田、三木)に地震計を設置、記録されたもので、六甲山周辺の地震活動は弱いが、人体に感じない無感地震が絶えず発生しており、妙見山(大阪府)から神戸に向かう地震帯が見つかった。同助教授らは、六甲山にある六甲断層に沿う地震活動とみており、将来都市直下型の地震が発生する可能性もある、と指摘している。
 アンケートによる震度調査は市街地の地盤区域を知るために行ったもので、市内の中学生約1400人を対象にした大がかりなもの。調査項目は最近、神戸市周辺で起きた①震源地・兵庫県宍粟郡山崎町=現・宍粟市山崎町=北方(48年9月21日午前11時)②同・和歌山県(48年11月25日午後1時)③同(同午後6時)④六甲山(49年1月18日午後1時)――の4地震の際、どこにいて、どの程度の揺れを感じたかなどを質問した。詳細な結果はまだ分析されていないが、山手と海岸部との間には同じ市内といっても震度のかなりのズレがあることが明らかになった。これは、山手が硬い地形の上にあり、海岸部は軟らかい地盤平野の上に人家があるためという。
 さらに、これまで神戸市や運輸省第3港湾局、阪神高速道路公団などが別々に調査したボーリング資料を再点検、地質の年代測定や花粉分析などをし、それらのデータを基に地震対策の基礎資料になる地震予想図を作成したところ、これまでの破砕帯と別に六甲山とポートアイランド東側にかけ、断層破砕帯のあることが推定された。
 また、神戸市とその周辺には無感地震が多く発生していることがわかった。同助教授らは、これらの地震が起きた際、断層をはさんだ両側の地盤の震動が違うため、断層をまたいで建設された建築物の疲労が激しく、耐用年数前に破壊することもありうる――と警告している。
 一方、地震史上、神戸は大阪や京都、東京などに比べ、地震の少ないところとされていた。神戸市の防災対策でも従来、土砂崩れ、風水害、高潮対策などが中心で、地震対策はいわばゼロに等しいのが実情。しかし、ビルの谷間を縫う高速道路、地下鉄建設、空へ伸びる高層ビル、臨海部の工場……神戸も他都市のように過密化ずるばかり。それだけに、関東大震災当時に比べるとケタ違いに危険は増大しているといえる。同助教授は「神戸地方に目立った地震が発生していないということは逆に、それだけ地震エネルギーが蓄積されているということだ」と言っている。
 神戸市はこの報告を受け、都市計画を見直すとともに震災時の避難場所の設定など総合的な防災対策を立てる方針。

能登半島地震で火災に遭った輪島市の朝市通り(ウィキベテアより)

本気に備えない地震対応

大阪市大の研究グループが六甲周辺に地震発生可能性調査を行ったのは50年前だ。地震予知に関しては、観測機器のレベルや蓄積されたデータなどの点から、現在よりかなり劣っていたであろう。そうした中で、研究グループは可能な限りの調査をしたようである。記事によると神戸市は研究グループの報告を受けて「総合的な防災対策を立てる方針」であったという。しかし「方針」にすぎなかった。五百旗頭さんは震度7の予言的答申にもかかわらず、兵庫県も神戸市も震度5までの防災訓練を続けたと指摘。「山崎断層が動いた時、あるいは南海トラフ巨大地震の際、神戸は震度5と見込み、直下型断層による震度7は無視して、家屋倒壊のない震度5までの地震にのみ備えた。本気で地震に備えたわけでない対応を重ねることで、いつしか安全神話に官民共にまどろむことができた」と痛烈に批判する。
東日本大震災による津波で原発史上最悪の事故が起きたのは、東京電力が警告信号を無視したためであった。
政府の地震対策本部は2002年、三陸沖北部から房総沖の海溝寄りについて「M8・2前後の地震が今後30年以内に20%の確率で起きる」という長期評価を公表。東電の津浪想定担当者と東電設計が、この地震による津波高を計算し、2008年3月18日、「最大15・7メートル」と予測、防波堤の設置などの対策を盛りこんだ報告書を東電幹部に提出した。ところが、東電幹部は「津浪高の想定は試計算に過ぎない。地震、津波がどこで発生するかの根拠を示しておらず、信頼性についても疑問がある」として、特段の対策をとらなかった。
東電設計の報告書にしたがって防波堤を造るとなると数十億円の経費が掛かるだろう。東電幹部はその支出を惜しんだに相違ない。せめて非常電源だけでも安全な高台に移しておけば、核燃料がメルトダウンさらにはメルトスルーするという最悪の事態は免れたはずだ。これなら数億円ですんだであろう。東電幹部が安全神話にしがみついた結果、とんでもない惨事に至ったのだ。
能登半島地震でも、前輪島市長は安全神話によってほぞをかむおもいをした。今年2月1日の朝日新聞電子版によると、梶文秋前市長は輪島市職員から市議を経て1998年から2022年まで6期24年にわたって輪島市長を務めた。市長時代の2007年、輪島市沖を震源とする震度6の地震を経験。避難所や備蓄品を増やし、インフラ整備や住宅の耐震化を進めたものの、「二度とあんな大きな災害が起きることはあるまい」とタカをくくった。
今年1月1日午後4時10分、能登半島地下16キロの地点を震源とする地震が発生。輪島市門前町走出で震度7を記録するなど、内陸部発生地震としては極めてまれな大地震で、245人が死亡、3人が行方不明(5月1日現在)に。観光地である輪島市の朝市が全焼し、特産の輪島塗の生産、販売などに壊滅的な被害を受けた。
梶さんは漁港から150メートル先の自宅から津波を避けるため高台に逃げようとしたが、あちこちで倒れた家が道をふさいでいて、車では逃げることができず、家族を連れて約15分かけて高台の集会所まで歩いた。梶さんは「もっとやれたことがあったのではないか」との思いをぬぐえずにいるという。
梶前市長の例にも見られるように、地震に逢った人まで安全神話に陥るのはどうしてであろうか。大西有三・京大名誉教授(地盤工学)は「『安全神話』『安全・安心』とリスクコミュニケーションを考える」という論文のなかで「研究者・技術者が『安全神話』に安住し、リスクが存在すること、事故が起こるということの想定を一般の人々に説明し続ける勇気がなかった」と指摘する。だが大阪市立大の報告書のケースのように、リスクの存在を伝えても、受けて側は耳をふさいでしまうのだ。人間の習性として、嫌なことは聞きたくないのだ。
歩行者のなかに信号が赤でも、両側から車が来ていなければ横断する人は少なくない。見えないものに危険を感じることはないからだ。それでも赤信号を渡れば違反である。「警戒シグナルに従わせるには法規制するしかない」という意見もあるが、もちろんこれは極論。そこまで法律で縛るべきでないが、「日本列島において地震災害から安全の地は存在しないと大吾すべし」との五百旗頭さんの苦言には耳を傾けねばなるまい。(完)