編集長が行く《水俣の海(熊本県水俣市)》文、写真 井上脩身編集長

企画展「水俣病を伝える」のパンフレット

~チッソの企業犯罪いまに伝える~
【LapizOnline】2月下旬、水俣(熊本県)に立ち寄った。かねてから水俣病の元となった有機水銀がたれ流された海を見たい、と思っていたのだ。水俣の岸辺から望む八代海は、おだやかに冬の日をあびていた。私が立っているのは「エコパーク水俣」。水銀ヘドロの海が埋め立てられ、現代風の親水公園に生まれ変わった今は、かつてここが地獄の海であったのがウソのようだ。実際、水俣病の公式確認から70年近くたち、水俣病という公害被害を知らない人が多くなっているといわれる。「水俣の苦しみが忘れられている」。そんな被害者たちの苦悩にこたえて3月14日から大阪・吹田市の国立民族学博物館で水俣病に関する企画展が開かれた。タイトルは「水俣病を伝える」。私はこの展覧会場に2回足を運んだ。

海にたれ流されたメチル水銀

まず、『四大公害病』(政野淳子著、中公新書)を引用しつつ、これまでの経過をおさらいしておこう。
新日本窒素肥料(以下チッソ)が水俣でアセトアルデヒドの生産を始めたのは1932年。この生産過程で副生されるメチル水銀化合物を含むカーバイド残滓の廃液を海に流した。メチル水銀は魚介類の体内で濃縮、やがて魚介類を食べた人たちの脳神経が冒され、全身にけいれんが起きるなどの激しい症状が現れた。
住民たちが異変に気づき1952年、熊本県水産課の係長が調査、「工場の排泄物にカーバイド残滓がある」と報告。しかし元チッソ水俣工場長の水俣市長は「カーバイド残滓は自然の堆積物」と言い張った。1956年、5歳と2歳の姉妹がチッソ水俣工場付属病院で診察を受けた。姉妹は茶碗がもてない、すぐに転ぶなどの症状があり、5月1日「原因不明の脳症状患者が入院」と水俣保健所に連絡。これがのちに水俣病公式確認とされた。
熊本県は1957年、「水俣奇病対策連絡会」を庁内に設置、原因究明を図るとともに、食品衛生法に基づき知事告示で漁獲禁止を決定。この適用の可否を厚生省に紹介したところ、厚生省からは「水俣湾の魚介類を摂取することは原因不明の中枢性神経疾患を発生させるおそれがあるので、水俣湾の魚介類が摂取されないよう指導すること」「水俣湾の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、漁獲された魚介類の全てに対し食品衛生法を適用することはできない」という相矛盾する回答が返ってきた。
熊本大学では1956年末までに54人の患者が確認され、うち17人が死亡。ネコに水俣湾で取れた魚介類をえさとして与えたところ、すべてのネコがマヒやけいれんを起こして死んだ。1957年、熊本大は発表した論文に初めて「水俣病」と記述、1959年「水俣病の原因物質は有機水銀」と公表した。これに対し、チッソは「有機水銀説は納得できない」と否定した。通産省も「有毒物質を有機水銀化合物とするには多くの疑点があり、チッソの排水に帰せしめることはできない」とチッソを擁護。1960年、経済企画庁主催の「水俣病総合調査連絡協議会」の席上、東京工大教授が有毒アミン説を展開した。
1965年、新潟県の阿賀野川で昭和電工による新潟水俣病が発生、1967年、公害対策基本法が制定され、事業者、国などが公害防止に関する責務を負うこととなった。翌年、チッソは水俣工場でのアセトアルデヒド生産を停止した。
1969年、28世帯112人が原告となってチッソを相手取り64億4239万円の損害賠償を求めて熊本地裁に提訴。チッソ従業員から「会社に都合の悪いことをいうと解雇される」、住民から「チッソを批判するとここに住めなくなる」と、″チッソ城下町″のなかで証人として出廷することを拒否。法廷でチッソは有機水銀化合物を海中に放出したことは認めたものの、「水俣病の原因であったとは1962年ころまで知りえず、責任はない」と主張した。原告側は「化学工場から排出される汚染水には何が含まれているかわからないので、排出者は十分な注意義務がある」と「工場汚悪水論」を展開。熊本地裁は1973年、原告の主張を認め患者世帯に損害賠償を支払うよう命じる判決をくだした。
2009年、水俣病被害者救済特別措置法が施行されたが、この法律に基づく救済を受けられなかった住民ら約1600人が国と熊本県、チッソに損害賠償を求める住民訴訟を起こし、このうち一部の原告について2023年9月、大阪地裁が原告勝訴、2024年3月には熊本地裁が原告敗訴の判決を言い渡しており、裁判は現在も継続している。
水俣病認定申請者は熊本、鹿児島両県合わせて1万7000人。被認定者数は2020年10月末現在、熊本県1790人、鹿児島県493人、計2283人(ほかに新潟県715人)。このうち生存者は熊本県246人、鹿児島県82人、計328人(新潟県129人)。

「むすこば抱き寄せることがでけん」

水俣病といえばまっ先に頭に浮かぶのが石牟礼道子さんの『苦海浄土』だ。その一部は1960年に発表、書き足す形で1968年、講談社から刊行された。私は70年代の初めころ読んだのだが、今回、『苦海浄土――わが水俣病』(講談社文庫)を購入し、読み直した。
「年に一度か二度、台風でもやって来ぬ限り、波立こともない小さな入り江を囲んで、湯堂部落がある」から始まるこの作品では、山中久平少年、山中久平の姉、仙助老人、釜鶴松、ゆき女(坂上ゆき)、米盛久雄、江津野杢太郎少年、杉原彦次の次女ゆりが登場。いずれも、症状や死に至る経過が水俣弁を交えてたんたんと表現されている。なかでも私の心がハンマーでたたきつけられるような重みと痛みをおぼえたのは坂上ゆきさんである。石牟礼さんは「ゆき女きき書」の項をたてて、ゆきさんの心の奥にせまっている。
1914年に生まれたゆきさんは頑強な体であったが、1955年に発病。手、口などにしびれ感があるうえ歩行も難しくなり、水俣市立病院の水俣病特別病棟に入院した。石牟礼さんがゆきさんを見舞ったのは1959年。ゆきさんの病室にたどりつくまでに、半ば死にかけている何人もの患者と出会い、廊下はまるで生ぐさい匂いを発しているほら穴のようだった。鹿児島県出水市の猟師・釜鶴松さんの病室からは、「なにかかぐろい(筆者註=原文のまま)、生きもの息のようなものを、ふわーっと足元一面にふきつけられたような気がして」石牟礼さんは思わず立ちつくした。「鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであった」
次の個室の患者もほとんど意識はなく、水俣病病棟は死者たちの部屋なのだ、との思いをもちながらゆきさんの病室にたどりつく。40歳を超えているゆきさんは、絶え間なく小きざみにふるえるなか、にっこりと感じのいい笑顔をつくろうとした。
夫の茂平さんが沖で取った魚を刺し身にしたり、タコをゆでたりして「うんと食え」とゆきさんに与える。ぶりぶり引き締まっているはずの刺し身が、布切れのような味気ない口ざわりだったが、ゆきさんはうれしそうな顔で食べた。有機水銀によって汚染されているとは知るよしもなかった。
「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった」(うちは口がもどらないので、よく聴いてください。海の上はほんとうに良かった=口語訳筆者)。ゆきさんは長く引っぱるような、途切れ途切れな幼児のあまえ口のようなしゃべりかたで語った。
「(天草から)嫁に来て3年もたたんうちに、こげな奇病になってしもた。残念か。うちはひとりじゃきらん。前も合わせきらん。手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが。自分の頭がいいつけんとに、ひとりでふるうとじゃもん」
「海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こうごたる。いまは、うちゃほんに情けなか。月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね……

「熊大の先生に、せめて月のもんば止めてはいよと頼んだこともありました。月のもん止めたらなお体に悪かちゅうて。ほんに恥ずかしか」
「うちは前は達者かった。手も足もぎんぎんしとった。働き者じゃちゅうて、ほめられたものでした。うちは寝とっても仕事のことばっかり考ゆるとばい。今はもう麦どきでしょうが。麦もまかんばならんが、こやしもするじきじゃが気がもめてならん。もうすぐボラの時期じゃが、と。こんなベッドの上におっても、ほろほろ気がモメて頭にくるとばい」
「うちゃだんだん自分の体が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい」
1968年1月、患者家族の救済措置を政府に要求することを目的として水俣病対策市民会議が発足した。そのころからゆきさんは錯乱状態に陥り、壁を叩いたり、突然おどりだしたり、ばったりひっくりかえったりした。石牟礼さんは「時間が彼女を更にそこから堕落させる。彼女は着地できぬ。堕ちながら、逆さになった声でいう。み、とぉ、れぇ、みい、とぉ、れぇ、みておれ、おぼえておれ」とゆきさんの言うに言えない心の内を表現した。
その後ゆきさんがどうなったかは、この本には記されていない。1968年12月に綴られたあとがきにも記述はない。

被害者を代弁する語り部

企画展「「水俣病を伝える」の会場入り口

冒頭に述べたように、水俣病の公式確認から70年近くたち、裁判の提訴や判決以外には水俣病に関する報道がほとんどないこともあって、世間から忘れられつつある。こうした現状に危惧した平井京之介・国立民族学博物館教授が「水俣病を伝える」と銘うった展覧会を企画した。
平井教授は今年3月3日付毎日新聞の「みんぱく発旅いろいろ地球人」というコーナーに展覧会を始めるに至ったいきさつを寄稿。その要旨は以下の通りである。
水俣市に水俣病センター相思社という、水俣病被害者を支援する目的で1974年に設立された団体がある。同団体は併設している水俣病歴史考証館での展示を中心に、水俣病を伝える活動を主に行っている。平井教授は2004年に初めて水俣を訪れて同考証館を見学。職員から相思社の活動について説明を受け、職員の水俣病を伝えることに対する情熱にうたれた。相思社の常勤職員は20~50代の7人。全員が東京や大阪から移り住んだよそ者。本人だけでなく家族も被害者でないのに、水俣病について解説をはじめると、話は熱を帯び、全身にエネルギーが満ちあふれていた。
平井教授は翌年、相思社に半年間滞在し、職員の活動について本格的な調査を行った。以来、23カ月に及ぶ水俣での研究から、相思社の活動の基礎が被害者とのつきあいにあると分かった。おしゃべりをする、相談にのる、手伝いをする、気にかける、といった日常の交流のなかから、被害者の深い悲しみや耐えがたい苦しみを知った。そのうえでの、多くの人たちに紹介しなければとの使命感が職員の情熱の根源。そう考えた平井教授は、民博創設50周年記念の一環として、「相思社の情熱を関西の人たちにも知ってほしい」と水俣病企画展を立ち上げた。
企画展は「伝える活動」に焦点を当てた。現地の自然やまちを映す「水俣の現代」▽歴史考証館▽水俣を撮り続けた写真家・芥川仁さんの作品「現存する風景」▽被害が多発した土地の記憶をたどる「明神が鼻」▽行政の施策を紹介する「啓発事業」などから成り、芥川さんの写真以外のほとんどは解説パネルによる展示である。
会場に入ると、石牟礼さんから寄贈された『苦海浄土』の生原稿の冒頭数枚の展示が目に入る。「年に一度か二度――」に始まる原稿は、一字一字丁寧に書き進められたことがわかる。説明パネルによると、石牟礼さんは受賞したマグサイサイ賞の賞金を相思社創設のために寄付したという。
その相思社が設立した考証館では11万点の資料、10万点の記事、7万点の写真、1000点の映像、1700点の音響データを保管。「水俣病事件を永く記憶にとどめ、水俣病の経験を出発点に社会のあり方を考える」ために活用するとしている。
これらの資料の一部が民博会場で展示された。その中の一つが瓶につめられた水俣湾の水銀ヘドロ。海水は暗褐色を呈しており、底一面が暗褐色の海であったことを示している。
印象深いのは水俣病患者を家族に持った語り部のインタビュー映像だ。父親が患者だった吉永理巳子さんは「父に、水俣病患者を差別し、隠してきたと言われた気がした」と語り部になった動機を語り「水俣病で亡くなった人の気持ちを代わって伝えたい」と述べる。
祖父母、両親とも患者であった杉本肇さんは「自分の年代は水俣病のことを教わらなかったため、差別され、いじめを受けた。子どもたちが胸を張って出身地を言えるよう、水俣病のことを伝えていきたい」と語る。
最後のコーナーで「課題」があげられていた。「地域住民の間で水俣病を伝えることへの理解が進んでいない。『水俣病の話はもうやめてほしい』との声がある」という。水俣の住民にとって「水俣病」はマイナスイメージだというのである。

水銀の海公園に変身

企画展で展示された漁具類など

水銀ヘドロがたまった水俣湾は1977年頃から13年をかけて埋め立てられ、1990年に終了、冒頭に述べたように「エコパーク水俣」という名の公園になった。水俣病センター相思社職員の遠藤邦夫さんは著書『水俣病事件を旅する』(国書刊行会)のなかで「名づけによって場所の意味や力を奪い取るハカリゴト」と批判している。私も同感だ。485億円という巨費を投じて、東京ドーム約13・5個分、58・2ヘクタールの水銀ヘドロの海を埋めたてた。埋め立て地以外のところにたまっていた高濃度(25?以上)の水銀ヘドロは浚渫船で吸い上げ、埋め立て地の下に埋めたという。こうして力づくで水銀を封殺したのはいいが、水俣病の記憶も封殺してしまっているのではないだろうか。
エコパーク水俣の一角に2006年、「水俣病慰霊の碑」が建立された。高さ2メートルの石碑のわきに大きさが異なる二つの鐘が添えられている。水俣病公式確認日(1956年5月1日)を記念して毎年5月1日に「水俣病犠牲者慰霊式」を開催、2010年、鳩山由紀夫氏が首相として初めて参列した。
2016年の慰霊式で、患者遺族代表として「祈りの言葉」を述べたのが大矢ミツコさん。前項の展覧会「水俣病を伝える」にその模様が紹介されていた。夫が水俣病の患者だった大矢さんは、「あなたが急に口の周りがもやもやっとして手足が震え、力が入らんと言いだして私はびっくりしました」と切りだした。「(夫が)かまどで焼いたイワシのおいしさは今も忘れられません。チッソが主人にほんとうにすまなかったと思うなら、逃げたりしないで、水俣病のことをちゃんと伝えてほしい。主人たちの命を無駄にしない会社になってほしい」と語った。最後に「私のような悲しみは、もうだれにもしてほしくありません」と訴えた。
私が水俣に着いたときは、夕方5時を回っていた。西九州は日が長い。日は西に傾いていたが、エコパーク水俣の目の前の恋路島というロマンティックな小さな島のむこうに八代海が広がり、天草の島がくっきりと浮かんでいる。『苦海浄土』に登場する坂上ゆきさんはこの島のどこかから海を渡ってこの地に嫁いできたのだ。嫁入りの舟の下がヘドロの毒海とだれがおもうだろう。
私の立っている公園の海際に「W」の文字をデフォルメしたようなモニュメントがたっている。鎮魂のためであろう。その下には水銀ヘドロが詰まっているのだ。センスのいい親水公園と海の下のヘドロ。そのギャップが私を落ち着かなくさせた。
公園には芝生がしかれ、そこに数十体の地蔵像が立っている。「魂石」と呼ばれる石仏で、被害者らによって彫られたものだ。無心に祈っている地蔵像の横には幼児のような仏像がならんでいる。「子どもには水俣病にかからないように」。そんな思いが込められているように感じた。
水俣病慰霊の碑の鐘を鳴らしてみた。ゴーンとにぶい音がひびく。慰霊式で祈りの言葉を述べた大矢さんに思いをはせた。鐘の音がチッソに、そして国に伝わるのだろうか。
先に鳩山首相(当時)が慰霊式に参列したと述べた。だが今年の慰霊式に岸田文雄首相は出席しなかった(伊藤信太郎・環境相が出席)。外遊日程が組まれていたにせよ、岸田首相に水俣の悲劇が伝わっているかとなると、いささか疑問である。『水俣病事件を旅する』の著者の遠藤さんは「水俣病を伝える活動でこれまでに分かったことは、正直なところ思ったほど伝わっていないということ」と告白している。民博での企画展で私がのぞいた2回とも、入場者はわずかしかいなかった。「水俣は昔話」。国民の多くがそう思っているのだとすれば、いずれ悪徳企業が公害を起こすであろう。国民が監視を怠れば、環境はまちがいなく悪化するのである。(完)